2012年7月18日水曜日

黙示録について(1)


FOXチャンネルのドラマ番組『ウォーキング・デッド』を、昨晩何気なく観た。最初どんな物語か全く分からなかったが、それもそのはず、“ゾンビによる世界の終末の後の物語”という、そっち系の米国ドラマ。意外にヒットした“終末もの”らしく、第2シーズンまで放送されているそうだ。

“終末もの”は、「アポカリプス作品」とも呼ばれている。僕はそう呼んだことはないのだけれど、「ゾンビ系」や「核戦争系」、「宇宙人襲来系」、「隕石衝突系」、「大地震・津波系」などさまざまある。「あちゃーこりゃアカンわぁ、世界の終わりやわぁ」な世界観が、作品で展開される。

観ているこっちはこっちで、ヒヤヒヤしながらも、現実の「安全圏」内にいることへの安堵感もあったりする。「なんだかんだ、おいらは死にません。映画館はエアコン効いてるし、ポップコーンだってコーラだってあるしね!」みたいな。

ホラーアクション映画『バイオハザードII アポカリプス』(主演:ミラ・ジョヴォヴィッチ)にも、「アポカリプス」の言葉があるけれど、この「アポカリプス」。キリスト教用語で「黙示」という意味がある。フランシス・フォード・コッポラ監督による戦争映画『地獄の黙示録』の原題は『Apocalypse Now』。現代風直訳は「黙示なう」。

wikipedia先生によると、「黙示」とは「初期のユダヤ教およびキリスト教において、神が選ばれた預言者に与えたとする『秘密の暴露』、またそれを記録したもの」だ。そして「黙示を記録した書を黙示文学(もくしぶんがく)という。黙示文学はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統において極めて重要」とされている。

「黙示」でキリスト教徒が真っ先に思い浮かべるのが、新約聖書最後に配置された『ヨハネの黙示録』だ。意味不明過ぎて極めて宗教的な内容。ルカの福音書などより、キリスト教を宗教たらしめる書物と僕は思っている。例えば「サタンは底知れぬ所に封印されるが、その後しばらく自由の身となる 」(20:1-3)といった具合。

『ヨハネの黙示録』、実はこの著者が誰だかははっきりしていない。ヨハネさんが書いたかどうかも怪しい。あくまで文中で著者が「ヨハネ」を名乗っているに過ぎないからだが、聖書研究家の中では、「筆者は使徒ヨハネではないか」ってことになっている。イエス12弟子の一人で、ヤコブお兄ちゃんと一緒に漁師から弟子になった人物だ。

この使徒ヨハネが『ヨハネの黙示録』の中で、終末において何が起こるかを記した。あるいは世界の終わりについて見た幻を語る。7人の天使がラッパを吹く話も記述する。第一のラッパにより、地上の三分の一、木々の三分の一、すべての青草が焼けるという。はっきり言うと、ぶっ飛んでいる。

僕はそんな『ヨハネの黙示録』にこそ、キリスト教の核心を見つけている。というわけで、僕の新たな思索テーマに、『ヨハネの黙示録』が加わりましたー、パチパチパチパチ。こんな風にして僕の哲学テーマ、情報整理シリーズが増えていき、結局何も「終末」を迎えられない気がしております。

「終末についての考察に終末はあるのか」あるいは「終末に辿り着けるのか」。こうしてこの“なんちゃって哲学”なブログは、ある種『リトモの黙示録』と化すのであーる。パチパチパチパチ。

◇つづく