2012年5月31日木曜日

超「実存主義」講座(サルトル記・中)


日本では大阪帝国大学が設立され、米国では「星条旗」が国歌に採用され、ロシアではその後初代ロシア大統領になるエリツィンが生まれたころ。1931年。フランスのサルトルは、高等中学校の哲学科教師になった。けれどそのまま教師生涯を続けたわけではなかった。というのも、ベルリン留学をすることにしたからだ。

ベルリン留学は1933年からの1934年にかけて。サルトルは本場ドイツで「現象学」を学んだ。というのも、「精神現象学」を書いた哲学者ヘーゲル(1770-1831)も、ドイツの人。現象学的解釈で「存在論」を展開したハイデッガーもドイツの人だ。サルトルはベルリンで、フッサール(1859-1938)を師匠とした。このフッサールから、哲学者サルトルが生まれ、ハイデッガーが生まれ、メルロー・ポンティが生まれた。

ちなみにハイデッガーは、「実存主義」に大きな影響を与えていて、もしかしたらサルトルよりも哲学者・思想家としてキーパーソンかも知れない人物と言える。なのでいずれ、あまり質が良くない当ブログ「哲学タイムズ」でも、ハイデッガーは取り上げていきたいと思ったりしている。いつものように、“思うだけ”で終わるかもだけど。

フッサールは、あらゆるものを現象そのもので把握、記述するスタイルでの「世界把握」を開拓していった。つまり先入観よりも、目の前にある現象を感じている直観を重視した。そこに「週刊少年ジャンプ」があったとして、そこに漫画本がある、絶対的に存在するかは分からない。と考えた。そこに絶対的にあるかどうか、ということよりも、その物体や概念を直観したことの絶対性を認めることが大切だとしたのだ。多分。

仮にそういった認識が全てとするならば、現在多くの高齢者を悩ませる認知症や、薬物中毒者の幻覚などを考えると、「ちょっと待った」的な部分、より深遠な哲学的世界が広がりそうだけれど、ここでは「現象学」についてはあまり触れないでおこっかなぁ。サルトルさんのお話です。

そんな「現象学」の権威の学者を、サルトルは師匠とした。フッサールから大いに学び帰国したサルトルは、2005年に世界遺産に登録された街、ル・アーヴルで再び教師になった。今度は大学教師。ル・アーヴルはあのノルマンディーがある街だ。この街で教鞭をとりながら、1938年、サルトルは小説「嘔吐」を出版。一躍有名人となった。

小説「嘔吐」はサルトルの代表作。ル・アーヴルに似た街で、ある絶望した研究者が、吐き気を覚えている。その理由は、彼を取り巻く事物や境遇が、「自我を定義する能力や理性的・精神的な自由を侵している!」との確信してしまったため。そんな小説が、実存主義における聖典の1つとして人気を博した。

ちなみに1964年、サルトルはこの作品が評価され、「ノーベル文学賞」受賞が決定された。が、サルトルはそれを辞退している。なにせ彼にとっては、「ノーベル賞は資産家層によって作られた儀式に過ぎない」からだった。僕がサルトル好きなのは、こんなところにもある。

◇つづく



2012年5月29日火曜日

なぜ僕は哲学を学ぶのか?考。




僕は社会人になって、もう一回大学生をすることにした。慶応義塾大学の文学部。哲学を学ぼうと、昨年2011年に入学、今年で2年目になる。僕が慶応義塾からどれほど知識を得ているかはさて置き、再び「大学生」となることで「哲学を学ぶ」「哲学を究める」というモチベーション維持には、大きく役立っている。

「学生」のご身分でメリットは多々あるにせよ、「そんなモチベーションのためだけに学費を納めるのは勿体ない」という人はいるだろう。そもそも「学生」の身分にならなければモチベーションを保てない程度なら、「学習・研究意欲がない証拠。だったら最初から止めてしまえ!」と言う人もいるかも知れない。いてもいい。

まあそれを言うなら、ロクに講義を聴かずにだらだら4年間大学に通うより、4年間毎日図書館に通って本を読み漁っているほうが、よっぽど教養的という気がする。人脈づくりや経験値向上、コミュニケーション能力醸成などは図書館では難しいけれど。ただし、そう毎日図書館に通って「ガクモン」できる人は、よっぽどアレな人だろう。

僕の場合、あっちの方面ではちょっとアレだけれど、そっち方面ではアレには至れなかった。アレじゃない人種にとっては、「学生」の区分に身を置くのは、結構アリだ。自己暗示にもかけられる。「おい!お前は学生なのだから、もっと必死になってガクモンしなさい」と自分を追い込めもできる。

アイデンティティをあえて、自由に、好きな枠組みに置く。それはできることとできないことがあるが、僕が再び学生という身分になることは、できた。もちろん学費が払えるという条件や、審査合格という条件、文字を読めたり書けたりする能力があるという条件など複合的な条件がクリアできたからではある。

だからインドネシアの農科大学に入学することは、僕にはできない。ロシアの宇宙飛行士になることも、僕にはできない。インドのバラモンになることも、僕には不可能だ。年齢的、言語能力的、人種的、宿命的なもの、あらゆる「的なもの」に縛られつつ、柵に囲われつつ、けれどもその中で僕なりに「僕が好きな身分」を求め、時にそれを得る。

求める、得る。聖書では「求めなさい。そうすれば、与えられる」とある。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と続く。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。かつて中東で、イエスはそう説教した。

けれど、当然、求める。けれど得られない。そんなことはザラだ。1億円求めて宝くじを買う、当たらない。就活をする、けれど職が得られない。考える、けれど答えは得られない。イエスは「魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」とうまいことを言ったが、実際は蛇以下のものになることもしょっちゅうだ。

哲学は奥深い。僕の奥深い問いを、僕は「哲学」と呼んでいるのかも知れない。とにかく僕に限った話ではないけれど、「求める。そして得られるもの」。「求める。けれど得られないもの」。どっちもある。できればどっちも得られるなら得たい。得られなければ「得られなくて良かった」と思い込みたい。パラダイムシフトの欲求。

そんなわけで、僕は「哲学」を学ぶ。学び、神に問うことになる。“求める。けれど得られない。”ってことはどーなのよ?と。そこで「神学」になる。「哲学は神学の婢」ということわざ通りになる。ならないかも知れない。僕は最終的には、トマス・アクィナスのこの言葉と向き合うことになる。そんな予感はしている。

◇おしまい

2012年5月28日月曜日

疲れる、とは何か考。


なぜ疲れるのか。生きていれば、ずっと動いていれば当たり前とも思うが、ふと「僕たちはどうして疲れなければならないのだろう」とも思う。睡眠の話にも近い気もするけれど。

「疲労」についてはいろいろ言われている。“wikipedia”でだけど。“痛み”と“発熱”に並ぶ、生命維持装置に欠かせない「3大アラーム」だとか。脳が主体的な疲労のことを「中枢性疲労」、肉体的に由来する疲労のことを「末梢性疲労」というのだとか。

また「生理的疲労」と「病的疲労」に区別もでき、病的疲労には発熱や記憶障害も起こることもある。同じ疲労でも、男性は無口になり“活動停止状態”に陥りがちだが、女性の場合は逆に“動的”で、他人に八つ当たりしやすいなどとも言われているそうだ。

「疲労」についても様々なメカニズム、ルートがありそうだが、恐らくおおよそはこんな感じになると思う。「ストレス→神経・免疫・内分泌系の異常→ウイルス再活性化→サイトカイン産生異常→神経細胞機能異常→疲労感」。

ここに出てくる「サトカイン」とは、免疫システムの細胞から分泌されるタンパク質のこと。僕らを構成する細胞の、増殖や分化、死、治癒などに関係する重要な高分子化合物だ。ストレスを受けると、このサトカインの分泌がおかしくなる。結果、僕らはヘロヘロになる。あくまでも一つのルートだけれど。

そう考えると、一番始めの「ストレス」がなければいい、ということになる。では「ストレス」って何? となる。で、1935年に「ストレス」の言葉を生み出した、カナダ人生理学者・ハンスさんの定義を借りてみると、「体外から加えられた要求に対する身体の非特異的な反応」となる。

ハンスさんは、反応を引き起こす刺激を「ストレッサー」、刺激に対して反応し、歪みを起こした状態のことを「ストレス」と区別した。だから「ストレス=刺激=有害」というわけでは、この時点ではない。実際僕は、結構刺激を求めているし、それが快感だ。喜びにつながり、「ストレス解消」になっている。

ただ、刺激にも限度がある。物理的、精神的に。その限度、許容量は人それぞれと思う。孫悟空なら死なない刺激で、クリリンなら死んでしまうこともある。ということになると、僕らにはそれぞれ、それぞれに合った、適度な「刺激」が求められ、適応能力を超えれば「疲労」につながる、ということなんですね。とまとめにかかる。まとめられそうにないけれど。

あるいは認知の仕方も「疲労」「ストレス」と関係がありそうだ。ある人には快感と思えることは、別の人には苦痛でしかないこともよくある話しだし。であれば、「あらゆる苦痛も快楽に感じれる認知術」があれば、僕らはかなり幸福な日々を過ごせそう。まあそのために僕は個人的に“修業”をしているのだし。

ここで言う“修業”は、たとえば色んな価値観を吸収し、あらゆる物事の知識を仕入れること、あるいは……。とにかく「プラス思考」を目指すプロセスになる。

うんぬん。かんぬん。そして話は「癒し」、飲み会やマッサージ、お笑い鑑賞などといった“疲労回復”に飛ぶ。飛んで止める。長くなる。けれど「疲労」と「回復」は、哲学的命題としてイコールだ。きっと。

いずれにせよ、「疲労」を思考していることで、僕は疲労してきた。ふぅ。だったら最初からよせば良かったのにね! 結局何もまとめられずにいることも、また疲労感を増量させてくれています。と「疲労」を実感するためのプロセスでした。

◇おしまい