僕は社会人になって、もう一回大学生をすることにした。慶応義塾大学の文学部。哲学を学ぼうと、昨年2011年に入学、今年で2年目になる。僕が慶応義塾からどれほど知識を得ているかはさて置き、再び「大学生」となることで「哲学を学ぶ」「哲学を究める」というモチベーション維持には、大きく役立っている。
「学生」のご身分でメリットは多々あるにせよ、「そんなモチベーションのためだけに学費を納めるのは勿体ない」という人はいるだろう。そもそも「学生」の身分にならなければモチベーションを保てない程度なら、「学習・研究意欲がない証拠。だったら最初から止めてしまえ!」と言う人もいるかも知れない。いてもいい。
まあそれを言うなら、ロクに講義を聴かずにだらだら4年間大学に通うより、4年間毎日図書館に通って本を読み漁っているほうが、よっぽど教養的という気がする。人脈づくりや経験値向上、コミュニケーション能力醸成などは図書館では難しいけれど。ただし、そう毎日図書館に通って「ガクモン」できる人は、よっぽどアレな人だろう。
僕の場合、あっちの方面ではちょっとアレだけれど、そっち方面ではアレには至れなかった。アレじゃない人種にとっては、「学生」の区分に身を置くのは、結構アリだ。自己暗示にもかけられる。「おい!お前は学生なのだから、もっと必死になってガクモンしなさい」と自分を追い込めもできる。
アイデンティティをあえて、自由に、好きな枠組みに置く。それはできることとできないことがあるが、僕が再び学生という身分になることは、できた。もちろん学費が払えるという条件や、審査合格という条件、文字を読めたり書けたりする能力があるという条件など複合的な条件がクリアできたからではある。
だからインドネシアの農科大学に入学することは、僕にはできない。ロシアの宇宙飛行士になることも、僕にはできない。インドのバラモンになることも、僕には不可能だ。年齢的、言語能力的、人種的、宿命的なもの、あらゆる「的なもの」に縛られつつ、柵に囲われつつ、けれどもその中で僕なりに「僕が好きな身分」を求め、時にそれを得る。
求める、得る。聖書では「求めなさい。そうすれば、与えられる」とある。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と続く。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。かつて中東で、イエスはそう説教した。
けれど、当然、求める。けれど得られない。そんなことはザラだ。1億円求めて宝くじを買う、当たらない。就活をする、けれど職が得られない。考える、けれど答えは得られない。イエスは「魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」とうまいことを言ったが、実際は蛇以下のものになることもしょっちゅうだ。
哲学は奥深い。僕の奥深い問いを、僕は「哲学」と呼んでいるのかも知れない。とにかく僕に限った話ではないけれど、「求める。そして得られるもの」。「求める。けれど得られないもの」。どっちもある。できればどっちも得られるなら得たい。得られなければ「得られなくて良かった」と思い込みたい。パラダイムシフトの欲求。
そんなわけで、僕は「哲学」を学ぶ。学び、神に問うことになる。“求める。けれど得られない。”ってことはどーなのよ?と。そこで「神学」になる。「哲学は神学の婢」ということわざ通りになる。ならないかも知れない。僕は最終的には、トマス・アクィナスのこの言葉と向き合うことになる。そんな予感はしている。
◇おしまい