2012年9月11日火曜日

哲学と自我について


あるフリー百科事典の「哲学」に関するページによれば、学問として「哲学」で扱う主題には、「真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為……などがある」という。

省略した部分には、「経験、世界、空間、時間、歴史」に加えて「現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性」などが入る。さらには、「世界の起源のような『根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩』」も追加される。実に幅広い。

同辞典の解説にもあるけれど、一般に「哲学」の主題は「抽象度が高い概念であることが多い」。その分、哲学するときには思考能力が必要になってくるけれど、きっと子どもたちも子どもなりの哲学はしている。「どうして○○ちゃんは意地悪するんだろう」とか、「なんでパセリはマズイんだろう」とか。

一方、惰性に生きてしまっていれば、大人になってもそんなに大それた哲学はしていない。誰だって毎日「真理とは何だろう」とか「正義とは何だろう」とか「美はなぜ感じるのだろう」とかは思わない。「どうして今日もパチンコしちゃったんだろう」ってのはあるかも知れないけれど。

ただ「どうして今日もパチンコしちゃったんだろう」も突き詰めれば、やはり大それた哲学に発展していきそうだ。弱い意思についての考察からは「意思とは何か」となるし、ギャンブルの中毒性についての考察からは「脳と自分を制御する仕組みはどうなってるのか」となる。

日本人を病みつきにさせるパチンコ業界について考察すれば、それはそれでいろいろな埃や闇、たとえば警察との癒着や、北朝鮮へとつながる国際経済問題などにも辿り着く。パチンコ機からは、高度な電子制御システム、遊ぶ機種からは、そのストーリー構成やデザインなどソフト部分について思い巡らせもできる。

ときに具体的に物事の仕組み、自分とその物事との関連性、その物事に向き合っている自分自身の状況・変化について考える。そしていずれ具体的なものから、抽象的なものにと語る言葉は移っていく。移ってはいくのだけれど、語る言葉そのものは具体的である必要がある。

「つまり愛とはアレだな」や「人間は結局あんな感じ」では駄目なのだ。抽象的なものをいかに具体的な言葉の枠にはめ込んでいくのかが、「哲学」の要なんだと僕は思っている。別にこの言葉や名付け、記号の力や意味の大きさは、「哲学」に留まらないのだけれど。

で、せっかくなので今日は短く哲学的テーマの一つ、「自我」についての情報を整理しておきたい。ちなみにいつも僕が行ってきている“情報の整理”は、哲学ではない。少しは思考しているかもだけれども、思索とは別次元で、僕は毎回“整理”をし、“知識を食している”。「自我とは何か」。

毎度お馴染みのフリー百科事典によれば、「自我」はドイツ語で「das Ich」 または「 Ich」。哲学および精神分析学における概念だ。ドイツ語代名詞の「 ich」と「 Ich」は、頭文字を大文字で表記することで区別される。「超自我」を唱えたフロイトは、それを「Ueber-Ich」と呼んだ。

「自我」あるいは「das Ich」あるいは「ego」。あるいは「自己意識」ともいう。イマヌエル・カントの「批判哲学」およびカントを中心としてフィヒテやシェリングなどにも見られる「超越論哲学」において、自己を対象とする認識作用を指す。なんだか話がいきなり難しくなってきた。

ドイツの哲学者、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762 - 1814)は、カントの実践理性批判を元に宗教概念を論じた処女作『あらゆる啓示批判の試み』を出版し、著名人になった人。イェーナ大学教授時代に「人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる」との言った。

初期フィヒテの「知識学」においては、「自我は知的直観の自己定立作用 」とした。「哲学の原理」だし、「哲学の唯一の対象」だとした。「自然」は「自我」に反定立される「非我」であり、本来的な哲学の対象ではないとした。ちゅーことで、フィヒテにおいては自然哲学の可能性は否定された。

そもそも“初期フィヒテの「知識学」”とは、広義には知識一般に対する形而上学のこと。知識学=フィヒテ哲学、です。で、“後期フィヒテ”においては、「自我」は「我々および絶対者の概念」へと展開される。 すなわち、後期ドイツ観念論においては、もはや自我は体系全体の中核概念ではなくなる。

もう一人。ドイツ観念論の代表的な思想家に、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・(フォン・)シェリング(1775 - 1854)がいる。シェリングはフィヒテの自我概念を摂取し、『自我について』(“Vom Ich”) で自我の自己定立性を、無制約性と結びつけた。

シェリングは『我が哲学体系の叙述』で、「自我」すなわち「主観的精神」と「客観的自然」はその原理において同一とした。「無限な精神」と「有限な自然」。これ自体は無差別な絶対者であるとした。後にヘーゲルは『精神の現象学』で、このような同一性からは有限と無限の対立そのものを導出することができないと批判した。

で、フロイトは……っていう風に、つらつら「自我」についての情報は溢れている。けれど辞典を引けば一発だ。Yahoo!辞典では、「自分、自己」。あるいは「哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。⇔非我」とある。

加えて「心理学で、行動や意識の主体。自我意識」。「精神分析で、イド・超自我を統制して現実への適応を行わせる精神の一側面。エゴ」。「自我」の発見。これは「自分」をうまく説明できなかった時代、言葉が確立されていなかった時代には、やはり大きな論争テーマになりえたのだろう。

「自我とは何か」。「自分のことです」。こんな短い返答で済みそうなことも、「哲学」フィルターを通すと、半端ない長文・駄文へと変身してしまうのは不思議だ。オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイト(1856 - 1939)の定義では、「自我」は1923年以前までは、いわゆる「私」だった。

これはこの1923年以前においては、フロイトが「意識」と「無意識」の区別によって精神を把握していたためだ。1923年以後、「心的構造論」と呼ばれる新たな理論を語るようになってから、「自我(エゴ)」という概念は「意識と前意識、それに無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉として明確化された。

「自我(エゴ)」は「エス(イド)」からの要求と「超自我(スーパーエゴ)」からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。とフロイトは言う。「エゴ」は“無意識的防衛”を行い、「エス」からの欲動を防衛・昇華したり、「超自我」の禁止や理想と葛藤したり従ったりする、調整的な存在とする。

「エス(イド)」? 「超自我(スーパーエゴ)」? となる。繰り返すように、哲学たった一つのテーマの情報をまとめるだけでもすごい苦労する。特に仕事の最中、職場でこっそりそれをやろうとすると、めちゃ大変な作業になる。そして隠れてブログをアップする。と、「自我」は望んでいる。

◇おしまい