2012年8月8日水曜日

思想家とは何か考1


「思想家とは何か」。あるいは「思想家の定義は何か」。これについて3回くらいに分けて整理していこうと思う。初回の今回は短く考えてみる。そして僕は今「思想家とは何か」について考える思想家なのではないか、と思想する。となると、人間は誰もが思想家なわけで、「じゃあ何で『思想家』をその他と区別するのだろう?」といった疑問が生まれてくるのであります。

「思想家」は英語で「Thinker」、「考える人」。きっとその対義語は「考えない人」なんだと思想する。僕はあえて「思想する」を連呼してみている。で、ウィッキー先生はこう教えてます。「様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人」のこと。

ちなみに2012年8月8日時点での「思想家」の記事ページで「関連項目」とされているワードは5つ。「知識人」「考える人 (ロダン)」「啓蒙思想家」「神秘思想家」「無政府主義者」。ここで注目されるのが、「知識人」のワード。やはり人は考えるにあたり、知識がなければ思想する材料も貧弱だということなんだろう。

ウィッキー先生の「思想家一覧」で登場する皆さんは、ほとんどが「哲学者」とも分類されている人々。古代ギリシアの哲学者「タレス」を筆頭に、「アナクシマンドロス」「アナクシメネス」「ヘラクレイトス」「エンペドクレス」「アナクサゴラス」「ピュタゴラス」と続く。

タレス(紀元前624年 - 紀元前546年頃)に関しては、「ソクラテス以前の哲学者の一人で、西洋哲学において、古代ギリシアに現れた記録に残る最古の(自然)哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖」と紹介されている人物。「ギリシャ七賢人の一人」でもある。

アナクシマンドロス(紀元前610年頃 - 紀元前546年)は、ギリシア人の植民市・ミレトスに住んでいたらしい人物。タレスやアナクシメネスとともに「ミレトス学派(イオニア学派)」の代表格。自然哲学について考察し、タレスとともに最初の哲学者とされている人物だ。

ちなみにアナクシメネス(紀元前585年 - 紀元前525年)は、アナクシマンドロスの弟子。「ミレトス三哲人」の一人とされている。有名なのが、万物の根源(アルケー)は空気であるとしたこと。その思索の背景には、古代ギリシアでは「死人は呼吸をしないことから、息は生命そのもの」と考えられていたことがある。

“最初の哲学者”。じゃあ彼らの前には思想した人はいなかったのだろうか。そうではない。そうではなくて、恐らく記録がないだけなんだと思想する。あるいは「思想家」と認められなかった。思想するに値しない人と考えられた、とは過言かも知れないけれど。

とにかく「思想家一覧」に挙がる人々、大量です。例のサルトルさんもいます。本当ならば人類のほとんどの名前が書かれても良いかも、と思う前提に立てば、掲載者は極々一部。むしろ挙がってない人が「なんでオラの名前挙げてくれてねーんだっぺ!」と怒っても良いかも知れない。と思想する。

ってわけで、今日も“強制終了”のお時間が参りましたので、こうやって、また中途半端に僕の記述は終わります。けれど僕の思想は続くのでございます。プチ。ブブブブブブブ‥…ガガガガガガガ…

◇つづく



2012年8月7日火曜日

石田梅岩先生考。


石田梅岩(1685年 - 1744年)という、江戸時代の思想家がいる。生涯独身。彼は「石門心学」という学問というか、倫理学というかの一派を創設した。この「石門心学」は江戸時代後期に大流行。ますます石田先生、あるいは梅岩(ばいがん)先生の評価が高まった。

「へー、で、今なぜ石田梅岩?」と聞かれても、いつものように「ふと気になったから、ちょいとまとめてみる」的な。今回もそんな理由で、ふと思い立ち、僕は「石田梅岩」あるいは「石門心学」について復習してみます。石田梅岩は、“百姓の出の商人市井学者”とも呼ばれているお方。

石田先生は、丹波の国、現在の京都府亀岡市にお生まれになりました。百姓の次男坊だった。小さい頃より“まじめ君”。人生について、人間について、思想を巡らせるようになりました。次男だったため丁稚奉公とかしたりしているうちに、若者はやがておじさんになりました。32歳。僕と同い年。

その32歳の頃に、石田先生は仏教者に出合い、彼に師事。やがて石田先生が思想家として名を残すことになる、そのスタートラインに立ちます。でもまだまだ先の話。石田先生が後に『石門心学』と呼ばれる思想を説いたのは45歳の頃。当時、先生は京都の自宅で、無料講座を開講し始めたのでございます。

石田先生の塾がカッコいいなぁと思うのは、塾の前には「聴講料無料、出入り自由、女性もどうぞ…」と掲げてあったこと。これはすごい、と思う。てゆーか、じゃあどうやって稼いでたんだ?とも思う。けれど石田先生はもともと商人だから、もしかしたら松下幸之助の、塾生にはお金が支給される松下政経塾のようなものだったのかも知れないなぁともいい加減に思う。

石田先生が60歳で亡くなる5年前、1739年に刊行したのが、『都鄙問答(とひもんどう』という書物。「江戸時代中期に成立した心学運動の経典というべき書」とも紹介されています、ネットで。「町人道を説いた。問答体による構成は四巻16段からなっている」ともあります。

人間の知識をデジタル化して公開されている“ネット界”から言葉を拝借、現代風に言えばコピペしてみると、『都鄙問答』はこんな内容だった。「江戸時代の心学の祖石田梅岩の主著。4巻16段。1739年(元文4)刊。明治以後も版を重ねた」。これは概要。

「月次の例会での問答を中心としたもので,梅岩の思想が集約されている」。つまり石田梅岩を知る際には、最重要書物と言える。僕は読んだことはないのだけれど。そして「社会に貢献する点では商人も武士に劣らないとの主張が高く評価されている」と、昔の経営学者で石門心学研究者は解説しています。

続けて「そのためにも商人は商人道を自覚しなければならぬと反省を求めるところに梅岩の主意があった」。「石門心学の中心的教典となった」。そんな本が、江戸時代に出た。この解説にある「商人道の自覚」。換言すれば「ビジネスマンの矜持」あるいは「サラリーマンの覚悟」。

別の方の解説では、「人間は基本的に平等と説きながら、士農工商それぞれの本分をまっとうすると諭す。とりわけ商いの道に対しては、積極的に肯定的な見解」を示していた。あるいは「この著作では商売の正しい道、いわば商人道についてわかりやすく解説してくれています」。

ちなみに「都鄙問答」とは、都会人(京都のインテリ層)と田舎者(無学な大衆)との対話という意味という。そんな形式の著書をもって石田先生は、「封建社会の儒教倫理に沿って職能として士農工商それぞれの社会的意義を考え、経済と道徳の一致を説き商人にも流通の役割の価値を見出し、利益を追求することの正当性を強調」(by wikipedia先生)した。

wikipedia先生の解説は、逆に分かりづらいけれど。とにかく石田先生は、儒教や仏教、神道の思想を取り入れ、武士身分が「何様」的に町を闊歩していた時代に、軽蔑の対象ともなっていた商人の営利活動を積極的に肯定した。

さらには勤勉と倹約を奨励した。石田先生のこうしたポジティブシンキングが、当時の京都の人々に受け入れられていった。ヘコヘコしているのがアレだった人々が「僕らは商人だ!」「卑屈になんてならないぞ!」と立ち上がるきっかけを、石田先生は与えた。

石田先生の「石門心学」。その実践道徳の根本は、「天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというもの」という。「その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる」(by wikipedia先生)。

ウィッキー先生は続けてこう解説する。「一般民衆への道話(どうわ)の講釈と心学者たちの修業(会輔)の場となったのが、心学講舎と呼ばれる施設である」。「明和2年(1765年)に手島堵庵が五楽舎を開いたのが最初」。

この「心学講舎」、最盛期には全国に180カ所以上あったという。京都には「五楽舎」「修正舎」「時習舎」などがあり、大坂には「明誠舎」、江戸には「参前舎」といった名前の学舎があった。いずれの学舎で教えていた根本思想は「天地の心に帰すること」。

「私心をなくして無心となること」、そして「仁義を行うこと」。その最も尊重するところは、「正直の徳」。うむ。現代のビジネスマン必携の心構え。これを江戸時代に説いた商人哲学者がいた。経営学者のドラッガーもびっくり!? いやびっくりはしないか。

石田先生、お疲れさまでした。先生のお墓は、大阪市中央区下寺1丁目の「大蓮寺」(最寄駅:地下鉄谷町線「谷町9丁目」)にあります。思想家の思想は地上を徘徊し、思想家の骨は地下に眠ります。

◇おしまい