2012年12月3日月曜日
睡魔撃退テスト体験考
午後7時過ぎ。いま、僕は猛烈な眠気の中にある。いや、今日一日中、睡魔と戦い、現在に至っている。いまのところ睡魔に負けて仕事中にうつ伏せで寝てしまう、という状態は間逃れてはいるのだけれど、寝て良いなら今すぐ僕は眠りにつきたい。
きっと先週の睡眠不足が響いているのだろう、と自己分析している。先週は調子に乗って、明け方まで起きる日々を過ごしてしまった。平均睡眠時間は3〜4時間くらいで、酷い日は1時間半くらい。これではまともに思考できなくて当然だ、社会人に悖る。
僕は以前、この「週刊哲学タイムズ」で、眠気について浅い考察をしてみた。題して『なぜ寝る、起きるのか?論』(2012年5月25日)。改めて自分の論考を読んでみると、案の定、大した中身ではない。読んでいて恥ずかしくて、やや目覚ましにもなったりする。
その駄文をまとめてみると、こんなだ。と、自分の文章をまとめるレアな作業に取り掛かる。「まず僕らはなぜ寝るか。肉体的・精神的休息や回復、記憶の再構成といった目的があるが、いずれにせよ脳と関わっている」。脳からの「成長ホルモンが、睡眠時は特に多く分泌」する。
「そのため肉体的ダメージの回復が促進」される。「それはそうだとして、実は『僕らはなぜ寝るのか』は、科学的にまだよく分かっていない部分が多い」。うんぬんかんぬん。結局、「覚醒」について触れてみてはいるけれど、“解答”はそこにはない。
ちなみに「僕らはなぜ寝るのか」の解答については、今回の駄文にも、ない。眠い、眠いけど覚醒しなければいけない。こうなったら激辛ラーメンでも食べるしかない、けれど今「蒙古タンメン中本」に行くわけにはいかない、どうしよう、何して自分を覚醒に導こう。
その自分への回答として、「そうだ、駄文を綴って脳を活性させよう」「こっそり公開中の“非公開ブログ”を使ってみよう」「タイピングも脳活性に効果ありそうだし」なんてことをうとうと思いつき、いま実行してみている次第だ。そして実際、思惑通りになってきたような。
言語使用回路を強制的に始動させる、という実験としてみれば、この睡魔撃退方法、なかなか有効なのかも知れない。うん。みるみるうちに視野がクリアになってきたような気がしてもいる。言語使用回路を強制的に始動させる、すなわちニューロンの動きの活性化。
ちょっち調べてみると、この方法は科学的にも間違っていなさそう。脳内活動が活発化するとき、血流も増加する実験結果をネットで発見したからだ。血流が増加するということは、運動して覚醒する状態と大差ないとも言える。ドーパミンも関係しているかも知れない。
この「ドーパミン」は、中枢神経系に存在する神経伝達物質のこと。心拍数や血圧を上げるアドレナリンや、集中力に関するノルアドレナリンの前駆体でもある。でもって、ドーパミンは運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わている。
まあそれはよいとして、体感的に僕は睡眠撃退法として「これはいける!」「とりあえず思っていることをタイピングしていくのは有効じゃん!」との確信に至っている、この10分程度の間で。そこに今回の記事・記録に価値を付加してみる。個人的なメモとして。
毎日僕らは寝て起きてを繰り返しているのだけれど、結局なぜ眠るのか、なぜ起きるのか、いまいちうまく説明できない。少なくとも僕は。宇宙の仕組みや太陽の動きにともなう朝と夜、生態リズム。奥深く神秘的な自然科学の話にまでなってしまいそうだしね。
◇おやすみなさい
2012年11月28日水曜日
「ゲシュタルト崩壊」について
「ゲシュタルト崩壊」という心理学用語がある。これは実に面白い現象で、誰もが経験したことがあると思う。僕もあった。たとえば、ある漢字一字をずっと眺めていると、その文字が何でその文字なのか、何と読むのか分からなくなってしまう、っちゅーあの経験。
その一例はこんな感じ。哲学の「哲」の字をずっと見る。ずっと見ていると、「折」と「口」に分解されてくる。「折」は「折」で、「扌」と「斤」に分解されてくる。構造がバラバラになってくる。次第にこれまで認知できていたものが認知できなくなってくる。
次第に僕はバカになってしまったのかな、とも思えてくる。そんな自分の脳ミソに疑いを抱いてしまうこの「ゲシュタルト崩壊」が「ゲシュタルト崩壊」ということを、僕は今年になって初めて知った。「えー今まで知らなかったの?」、「うん。。。。」。
ゲシュタルト崩壊を起こしやすい文字で有名なのが「借」だ。ほかにも「傷」や「今」、「を」「ル」も、ゲシュタルト崩壊を起こしやすいと言われている。一つのまとまった構造から全体性が失われ、個々の構成部分に切り離して認識し直されてしまいがちな文字たち。
全体性への認識が失われてしまうのは、文字だけではない。「幾何学図形、文字、顔など、視覚的なものがよく知られるが、聴覚や皮膚感覚においても生じうる」と、ウィキペディア先生は教えてくれる。聴覚や皮膚感覚においてのゲシュタルト崩壊?
正直、聴覚や皮膚感覚においてのゲシュタルト崩壊については、ぱっとその経験を思い浮かばせられないけれど、あるみたい。そんなわけで、これから僕は、五感を研ぎ澄ませ、日常生活におけるゲシュタルト崩壊日誌をつけてみようかな、なんて思ったりもする。
世界の心理学者たちにより、「ゲシュタルト崩壊」についての研究が進んでいる、と思いきや、「発生要因については未解明な部分が多く、…中略…比較的高次な認知情報処理過程によって発生することがわかる程度」と実はあまり解明されていない。
ただ、「静止網膜像のように消失が起きない」ことなどから、感覚器の疲労や順応によってその現象が起きているのではないようだ。人間の心理、人間の認知、人間の脳ミソ……実に興味深い。自分自身の知覚システムすら理解しないで、生活しちゃっている凄み。
ちなみに「ゲシュタルト」はドイツ語で「形態・姿」という、まとまりのある構造を意味するそうだ。心理学の一学派に「ゲシュタルト心理学」もあり、人間の精神は部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置く。20世紀初頭にドイツにて提起された。
ってことで、最後に、“人格崩壊”に至らしめられるとの怖い話しもある「ゲシュタルト崩壊」をもっかい経験してみたい。ルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学哲学……、ちょっち怖いね。
◇おしまい
2012年11月16日金曜日
思想と表現の狭間について
ずっと長い間「週刊哲学タイムズ」の更新を怠った。「おいおい、全然『週刊』じゃないじゃん!」といった突っ込みもある。まあそもそも当初から「週刊」ではなかったのだけれども。で、久しぶりにやや“何かを書き留める”といった時間ができたので、更新してみんとするなり。
で、何についてかというと、思想と表現の狭間についてです。この更新していなかった期間、僕は何も考え事をしていなかったかというと、そうではない。その考え事の対象や内容、質はともかくとして、僕なりに何かを悩んだし、何かについてやや深めに考察もした。先日は恩師の他界もあった。
ただ、この間の僕の考え事は何かに記録されているかと聞かれれば、「ノー」だ。だから僕が何かを考えていたとして、その証拠はない。仮にアインシュタインの相対性理論よりも画期的な考察や理論を組み立てていたとしてもだ。あるいは一つの教義を生み出していたとしても。
考える。けれど記録にない。考察の証拠はない。証拠がなければある考えについて誰かが何か思想的影響を受けることもない。もしかしたら「何も考えていない風がかっこいい」などとある芸能人の影響を受けるファンみたいなのはあるかもだけど。
僕がここでちょっと触れておきたいのは、記録に残されていない人々の考察についてだ。以前僕は「思想家とは何か」について“思想”した。多くの思想家、哲学者の名前を挙げてみたけれど、他にもまだまだ思想家と呼ばれる人々はいたし、今もいる。とてもたくさん。
ローマ帝国の政治家でストア哲学者のセネカ(BC1- 65)、日本では絶大な尊敬を集める弘法大師または空海(774 - 835)、インドの宗教家でヨガの行者としても知られたラーマクリシュナ(1836 - 1886)……。
とにかく、多くの思想家たちが、「思想家」たらしめているのは、その言動や発表した思想に基づいての評価と言える。つまり表現者でなければ「思想家」とは見なされないかも知れない、と僕は思うのだ。と、僕は何かを思っていることをブログで表現する。
では表現しなければ、思想家足りえないのか。そうではない。そうではないけれど、近所のスーパーのレジのおばさんや、工事現場の警備員たち、あるいはぶすっと国会議事堂で座る政治家のおじさんたち。誰でもよいのだけれど、何かを表現しなければ、思想家とはみなされない。
「別に思想家とみなされなくてもいーんですけど」という人はごまんといるだろうけれど。ただ、「一般人」と「哲学者」あるいは「思想家」との間にあるものを、ちょっとまとめてみたいと思う。まずは僕の頭の中で。そしてそれが何かで表現されるかどうかは不明だけれど。
思想は表現とつながってこそのものではないのだろうか。そんなことをふと思った次第、再確認した次第なのであります。何をいまさら気付いてんだ、といった意見はごもっとも。意見あっての考えや指向の見える化なのであります。
◇おしまい
2012年11月5日月曜日
不可知論は不価値論なのか考
「ふかちろん」と読む「不可知論」。英語では「 agnosticism」。今回は、この「不可知論」について、簡単にまとめてみる。ちなみにあの著名な投資家、ウォーレン・バフェットさんも、不可知論者とのことのよう。不可知論者、世界最大の投資会社トップを含め、結構多くいるみたいです。
さて「不可知論」。この言葉は「1868年(あるいは69年)にトマス・ヘンリー・ハクスリーによって造語された」とはウィキペディア。ハクスリーは英国の生物学者で、「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名がある。チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護した。
「Yahoo!百科事典」では「不可知論」はこう解説されている。「不可知論の起源を古代ギリシアのソフィストや懐疑論者にまでさかのぼって考えることもできる」、「しかし神の本体は人間によっては知られないとする中世の神学思想から始まるとみるのが妥当であろう」。
続けて「つまり、人間は一種の知的直観であるグノーシスgnosisによって神の本体を直接知ることができるとするグノーシス派や本体論者の主張に対し、そうしたグノーシスを否定するのがアグノスティシズム、すなわち不可知論である」。
とても分かりづらい。この説明だと「グノーシス主義」を知っている必要がある。この思想は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つ。「物質」と「霊」の二元論に特徴がある。世界や事物の根本的な原理を「物質」と「霊」とする世界観だ。
そんなわけで「グノーシス主義」は「自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する」とされる。また同主義は、地中海世界を中心とするもの以外に、イランやメソポタミアに本拠を置くものもあるようだ。
代表的なグノーシス主義宗教はマニ教になる。サーサーン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教で、かつてスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された。が、現在ではほぼ消滅したとされる。
話しは脇道をさらに進む。「グノーシス主義」について。この世界観では、「物質からなる肉体を悪」とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。1つは禁欲主義となり、マニ教となった。一方では、「霊は肉体とは別存在=肉体汚してOK」の公式で、不道徳をほしいままにした。
この「グノーシスgnosisによって神の本体を直接知ることができるとするグノーシス派や本体論者の主張に対し、そうしたグノーシスを否定するのがアグノスティシズム、すなわち不可知論である」。まだ分かりづらい。そして、じゃあ「本体論者」って何?となる。
本体論、これは神の存在証明における論理の一つだ。あるいは「存在論」。「goo辞書」では、「あらゆる存在者が存在しているということは何を意味するかを問い究め、存在そのものの根拠またはその様態について根源的・普遍的に考察し、規定する学問」とある。いわゆる伝統的な哲学の基礎的思考作業だ。
そんなわけで「Yahoo!百科事典」から解いていくと、結局「不可知論」が何だか分からなくなってきそう。ウィキペディアは、「神学に関する命題の真偽、また客観的本質的な実存は本質的に認識することが不可能である、とする宗教的、あるいは哲学的な立場」とまとめている。
神学に関する命題とは、形而上の存在、死後の世界、神の存在、神のお告げなどのこと。そして「神はいるともいないとも言えないのだ」とする“公平な中立的不可知論”と、“無神論者であると言明するのがはばかられる場合に用いられる消極的無神論”があるとする。
積極的な無神論者には、『利己的な遺伝子』で知られる進化生物学者のリチャード・ドーキンスがいる。僕は読んでいないのだけれど、彼は著書『神は妄想である』には、英国の知識人集団では97%が無神論か不可知論に属すると述べているという。
不可知論とは何か。「goo辞書」では、「経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説」とある。「また、後者の存在そのものも不確実とする説」とある。まだ分かりづらいかも知れない。
そこで「世界大百科事典 第2版」。これは分かりやすい。遠回りせず最初からそう言えばいいではないか、となる。「一般に,事物の究極の実在,絶対者,無限者,神は知られえぬと説く立場を指す」。僕らは神について知りえない存在と認めること、になる。
残念ながら「不可知論」を軽く研究したところで何も生まれない。けれども割りと多くの人々が、無意識に「不可知論者」なのかも知れないと僕は思っている。つまり割りと多くの人々が、勝手に「不可知論者」に分類されているのかも知れないと思っている。
ただ、なぜ「不可知論」なのか、「不可知論」の優位性はどこにあるのか。その辺について僕らは考えていく必要がある。ただ何となく「不可知論」では弱い。なぜ僕らに絶対者を知覚できいないのか、そういうシステムはどうしてあり得るのか。知覚してないからそう思うだけなのか。
真実を神、絶対的な何かとするならば、この「不可知論」の奥深くに内在する真実に届くことができるのだろうか。不可知論的には、きっと無理になる。僕たちは事物の究極の実在は知られ得ぬ存在ということであるのが正しければ。そうであれば哲学する意味はどうなるんだろう。
◇おしまい
2012年8月21日火曜日
「進化論」考。
恐らく「進化論」をテーマにした論考を、たった5~10分程度のタイピングでまとめてしまおうとするのは無謀というより論外かも知れない。いろいろ思うトコ、知識としてまとめておくべきことは多すぎるからだ。でも今の僕には、長文をタイプする時間・余裕がない。
たとえば「ダーウィン」について。「進化論を否定する米国の保守的キリスト教」について。あるいは「ラマルクの進化論」や「遺伝」について、または「ミッシングリンク」「有神論的進化論」「ウイルス進化説」「遺伝子の水平伝播」について。言葉としての「進化と進歩」について。
たとえばカトリック教会では1996年、前ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世が「進化論は仮説以上のもの」としている。さらには「肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神に創造されたもの」だと述べている。一方、米国・ケンタッキー州には、進化論を否定する創造博物館がある。
僕らはそんな世界に生きている。人類は進化あるいは退化し、「進化論賛成者」と「進化論否定者」を生み出している。進化あるいは退化して、そんな両極端を生み出した。「進化」や「退化」で、人間の、人類の歴史を読み解こうという試み。思考。模索。
実験・研究・思索。人類はさまざまな活動を通じて、「進化論」をもんできた。サルにはできない。サカナにもできない。コオロギにも、「進化論」探究は無理だ。でも人類はそれをしてきたし、今後もしていくだろう。この差は何か。ってことで「進化論」。
「インテリジェント・デザイン(ID)」という考え方がある。「知性ある何かによって、生命や宇宙のシステムが設計された」とする説だ。キリスト教徒には分かりやすい概念。要するに一神教的解決論。1990年代にアメリカの反進化論団体、一部の科学者などが提唱した。
この考え方はカルトや秘密結社にも通じるものがある。宇宙人が人間を創造した、という説もある。設計者が僕らを創造した。そこに「進化」というシステムの設計もなされた、と考えてもよいのだけれど、反進化論者は「ID」をそうは捉えない。捉えたくない。
最後に、Wikipedia先生が「進化理論の発展」を語るところをコピペ。時短あるいは省エネ。「ダーウィンが提案した進化理論の中で、共通祖先からの進化、…省略…、種分化と分岐による生物多様性、適応進化における自然選択の役割は、現在の進化学においても揺るぎのない枠組み」となった。
一方で、「20世紀中盤に進化学に加わった中立説は、分岐系統学に新たな証拠を提供し」た。この中立進化説は「自然選択の働かないランダムな進化過程のメカニズムを明らかにしようとしている」という。これは突然変異と遺伝的浮動が進化の主因であるとする説のこと。
現在、「集団遺伝学、生態学、生物地理学、古生物学などの総合的な分野として発展してきた進化学は、さらに、分子生物学、進化ゲノム学、進化医学など、様々な分野の進展を取り込みながら、確立された科学の一分野として発展」。幅広く、奥深くなっている。
近年は、「発表される様々な報告や機構の提唱などは、基本的にダーウィンの考えた大まかな進化の枠組みを基盤として、さらに発展させる方向に進んでいる」。 しかし、「一部の学者はダーウィニズムやネオダーウィニズムを原理主義であると考えており、科学ではないと言う見解がある」。
以上の抜粋部分が、「現在の“進化論”」。この中で登場した「中立説」は、国立遺伝学研究所の木村資生によって、1960年代後半および1970年代前半に発表されたもの。日本人も「進化論」の進化に、大きく影響を与えている、という一面を見ることができる。
ダーウィンが書いた『種の起源』(1859年)から160年以上経つ。「進化論」はどこまで進化するのか。人類はどこまで進化していっちゃうのか。進化とは退化なのか。思うところは尽きません。
◇おしまい
2012年8月7日火曜日
石田梅岩先生考。
石田梅岩(1685年 - 1744年)という、江戸時代の思想家がいる。生涯独身。彼は「石門心学」という学問というか、倫理学というかの一派を創設した。この「石門心学」は江戸時代後期に大流行。ますます石田先生、あるいは梅岩(ばいがん)先生の評価が高まった。
「へー、で、今なぜ石田梅岩?」と聞かれても、いつものように「ふと気になったから、ちょいとまとめてみる」的な。今回もそんな理由で、ふと思い立ち、僕は「石田梅岩」あるいは「石門心学」について復習してみます。石田梅岩は、“百姓の出の商人市井学者”とも呼ばれているお方。
石田先生は、丹波の国、現在の京都府亀岡市にお生まれになりました。百姓の次男坊だった。小さい頃より“まじめ君”。人生について、人間について、思想を巡らせるようになりました。次男だったため丁稚奉公とかしたりしているうちに、若者はやがておじさんになりました。32歳。僕と同い年。
その32歳の頃に、石田先生は仏教者に出合い、彼に師事。やがて石田先生が思想家として名を残すことになる、そのスタートラインに立ちます。でもまだまだ先の話。石田先生が後に『石門心学』と呼ばれる思想を説いたのは45歳の頃。当時、先生は京都の自宅で、無料講座を開講し始めたのでございます。
石田先生の塾がカッコいいなぁと思うのは、塾の前には「聴講料無料、出入り自由、女性もどうぞ…」と掲げてあったこと。これはすごい、と思う。てゆーか、じゃあどうやって稼いでたんだ?とも思う。けれど石田先生はもともと商人だから、もしかしたら松下幸之助の、塾生にはお金が支給される松下政経塾のようなものだったのかも知れないなぁともいい加減に思う。
石田先生が60歳で亡くなる5年前、1739年に刊行したのが、『都鄙問答(とひもんどう』という書物。「江戸時代中期に成立した心学運動の経典というべき書」とも紹介されています、ネットで。「町人道を説いた。問答体による構成は四巻16段からなっている」ともあります。
人間の知識をデジタル化して公開されている“ネット界”から言葉を拝借、現代風に言えばコピペしてみると、『都鄙問答』はこんな内容だった。「江戸時代の心学の祖石田梅岩の主著。4巻16段。1739年(元文4)刊。明治以後も版を重ねた」。これは概要。
「月次の例会での問答を中心としたもので,梅岩の思想が集約されている」。つまり石田梅岩を知る際には、最重要書物と言える。僕は読んだことはないのだけれど。そして「社会に貢献する点では商人も武士に劣らないとの主張が高く評価されている」と、昔の経営学者で石門心学研究者は解説しています。
続けて「そのためにも商人は商人道を自覚しなければならぬと反省を求めるところに梅岩の主意があった」。「石門心学の中心的教典となった」。そんな本が、江戸時代に出た。この解説にある「商人道の自覚」。換言すれば「ビジネスマンの矜持」あるいは「サラリーマンの覚悟」。
別の方の解説では、「人間は基本的に平等と説きながら、士農工商それぞれの本分をまっとうすると諭す。とりわけ商いの道に対しては、積極的に肯定的な見解」を示していた。あるいは「この著作では商売の正しい道、いわば商人道についてわかりやすく解説してくれています」。
ちなみに「都鄙問答」とは、都会人(京都のインテリ層)と田舎者(無学な大衆)との対話という意味という。そんな形式の著書をもって石田先生は、「封建社会の儒教倫理に沿って職能として士農工商それぞれの社会的意義を考え、経済と道徳の一致を説き商人にも流通の役割の価値を見出し、利益を追求することの正当性を強調」(by wikipedia先生)した。
wikipedia先生の解説は、逆に分かりづらいけれど。とにかく石田先生は、儒教や仏教、神道の思想を取り入れ、武士身分が「何様」的に町を闊歩していた時代に、軽蔑の対象ともなっていた商人の営利活動を積極的に肯定した。
さらには勤勉と倹約を奨励した。石田先生のこうしたポジティブシンキングが、当時の京都の人々に受け入れられていった。ヘコヘコしているのがアレだった人々が「僕らは商人だ!」「卑屈になんてならないぞ!」と立ち上がるきっかけを、石田先生は与えた。
石田先生の「石門心学」。その実践道徳の根本は、「天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというもの」という。「その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる」(by wikipedia先生)。
ウィッキー先生は続けてこう解説する。「一般民衆への道話(どうわ)の講釈と心学者たちの修業(会輔)の場となったのが、心学講舎と呼ばれる施設である」。「明和2年(1765年)に手島堵庵が五楽舎を開いたのが最初」。
この「心学講舎」、最盛期には全国に180カ所以上あったという。京都には「五楽舎」「修正舎」「時習舎」などがあり、大坂には「明誠舎」、江戸には「参前舎」といった名前の学舎があった。いずれの学舎で教えていた根本思想は「天地の心に帰すること」。
「私心をなくして無心となること」、そして「仁義を行うこと」。その最も尊重するところは、「正直の徳」。うむ。現代のビジネスマン必携の心構え。これを江戸時代に説いた商人哲学者がいた。経営学者のドラッガーもびっくり!? いやびっくりはしないか。
石田先生、お疲れさまでした。先生のお墓は、大阪市中央区下寺1丁目の「大蓮寺」(最寄駅:地下鉄谷町線「谷町9丁目」)にあります。思想家の思想は地上を徘徊し、思想家の骨は地下に眠ります。
◇おしまい
2012年7月25日水曜日
◇テーマ整理の記
僕の注意欠陥・多動性障害と低い記憶容量ゆえ、僕はこのブログで何のシリーズを好き勝手に始めてしまっているのかを整理してみたい。ここで整理しないと、本当にほとんど全ての「シリーズ」が中途半端に終わってしまいかねないと危惧してのことだけど。
2012年7月25日現在、テーマ・タイトルだけをpublishしているのだって幾つかある。いつか書き上げたいと思いながら、別のテーマ・タイトルについて書いちゃっているためだ。『「Google」不親切論。』、『「進化論」考。』、『なぜ「鉄道オタク」になりたいか』。そうそう、『海と太陽、我が逗子論。』もある。いずれも“どーでもいいネタ”だけど、僕にとっては重要なのだ。
開始しちゃっているシリーズは『超「実存主義」講座』、『気象考』、『知的「美学」研究』、『「世界陰謀論」考』、『黙示録について』、『フリーメイソン考』。そっかぁ、こんだけあったかぁ。広げ過ぎちゃいましたね。けれど繰り返すが、いずれも“どーでもいいネタ”だけど、僕にとっては重要なのだ。
きっとまだまだテーマ・シリーズは増えていくと思う。そしていつか宣言したように、突然ぱたん。と終わりの日がやってくるとも思う。それはつまり、それが世界の真実であるかのように。けれど僕自身が終わらない限りは、その重要性ゆえ、考察あるいは情報整理をしていきたい。それが僕の趣味でもあるし、僕の病気でもある。
◇むふふ
2012年7月25日現在、テーマ・タイトルだけをpublishしているのだって幾つかある。いつか書き上げたいと思いながら、別のテーマ・タイトルについて書いちゃっているためだ。『「Google」不親切論。』、『「進化論」考。』、『なぜ「鉄道オタク」になりたいか』。そうそう、『海と太陽、我が逗子論。』もある。いずれも“どーでもいいネタ”だけど、僕にとっては重要なのだ。
開始しちゃっているシリーズは『超「実存主義」講座』、『気象考』、『知的「美学」研究』、『「世界陰謀論」考』、『黙示録について』、『フリーメイソン考』。そっかぁ、こんだけあったかぁ。広げ過ぎちゃいましたね。けれど繰り返すが、いずれも“どーでもいいネタ”だけど、僕にとっては重要なのだ。
きっとまだまだテーマ・シリーズは増えていくと思う。そしていつか宣言したように、突然ぱたん。と終わりの日がやってくるとも思う。それはつまり、それが世界の真実であるかのように。けれど僕自身が終わらない限りは、その重要性ゆえ、考察あるいは情報整理をしていきたい。それが僕の趣味でもあるし、僕の病気でもある。
◇むふふ
2012年6月8日金曜日
東京「マサイ族」考。
なぜ今、ここで「マサイ族」に関心を持つのかは、さて置く。ただ、ふと僕らは、あの「マサイ族」から学ぶべきことがあるのではないか、と思ったのだ。あくまでも“ふと”だけれど。
たとえ「マサイ族」が、現地ではしたたかに、観光客向けに衣装を着て、嫌々ジャンプし続けていたとしても。あるいは割りとスマホを駆使していたとしてもだ。僕らは時々、ケニアのマサイ族について思い起こす瞬間が、年に一回はあっていい。
僕にとってのその第一回目が、今日になる。晴れた東京の午後3時過ぎ、優しい風を受けながら僕は、遥か遠くの地、ケニアの戦士について思いを馳せる。そして温くなったアイスコーヒーを喉に通す。
東アフリカのケニア。人口約4000万人で、「キユク族」など部族は多数あり、「マサイ族」は“少数民族”になる。ただ、以前は民族間の境界はなかった。つまり同族だったのが、ケニアを植民地としていた英国人に便宜的に区分され、「マサイ族」が造られた。
ちなみにケニアが英国の保護領となったのは1902年。その前からはドイツからも侵入を受けていた。その前にはアラブ人が侵入。その前の15世紀末は、ヴァスコ・ダ・ガマの来航をきっかけに、ポルトガル人にも侵入されてきた。
15世紀初頭には、中国・明の鄭和の艦隊の一部が、ケニアに到達している。などを考え、さらに「スワヒリ文明」などを考えると、ケニアは実に昔から、グローバル化の波にさらされていたと言える。そして“グローバル化”促進を象徴するアメリカの、現大統領のオバマさんは、このケニアの血を引いている。つまり今度はケニアが出発地点となった。
以上のような分かったようで分かりにくい背景を持つケニアに、「マサイ族」はいる。ケニア南部から、タンザニア北部一帯の先住民族で、「マサイ」とは「マー語を話す人」の意味があるという。推定人口20ー30万人。
遊牧民だったマサイ族は、「非常に勇敢でプライドが高く、草原の貴族と呼ばれる」と、wikipedia先生は教えてくれる。そんな彼らが信仰するのは、アフリカ大陸最高峰・キリマンジャロ山頂上に座する「エン=カイ」という神という。
伝統的住居は、牛糞と泥をこねて作った掘っ立て小屋。集落「ボマ」は、この住居を円状に配置し、外側を木の柵で囲うのスタイルが伝統的。日暮れ時には、放牧する牛などの家畜を、猛獣などから守るために集落内に連れ戻す。
「牛」は通貨ともなり、牛を持たない男は、一生結婚はできない。逆に牛持ちはモテる。一夫多妻も可能だ。また男には「戦いのみが男の仕事」という伝統的価値観がある。だから武器以外の道具を持ち運ぶことすら恥とする。
だからマサイの男は、本来は猛獣退治や牛の放牧以外の労働はしない。他の仕事は女の仕事だ。けれど男は、守るべきときに守るべきものを命を懸けて戦った。時に実際、命を落とした。
伝統的な主食は牛乳と牛の生血。政治的には村ごとにいる長老が物事を決定する原始的な長老制。マサイ族の男は、生涯に一度は戦士階級「モラン」になる。伝統的な色は赤。男には、大人になる通過儀式として割礼がある。女も、性器に切り痕を入れる。「マサイ族」はそういう部族だった。
しかし列強による植民政策のあおりを受け、マサイ族の土地は、強制的に奪われてきた歴史がある。そして現在は、遊牧エリアとしていた多くは「動物保護区」や「国立公園」などに指定。以前のように遊牧生活は“違法行為”となってしまった。
さらには現在、ケニア・タンザニアの両政府により「定住化政策」が進行中。それゆえかつての伝統的生活スタイルは、着実に時とともに破壊されてきた。そんなわけで、「戦士」たちは農耕や観光ガイドなどをしなければ、生きて行けなくなっているのが現状だ。
「マサイ族」の観光ビジネス傘下化は、こうした事情がある。だから「観光客が来たら急いで服を着替え、槍を持つマサイ族」は、決して笑えない悲劇、哀しい物語なのだ。よく日本のテレビでは茶化しているけれど。
僕らはいろんな意味を受け取ることができる、マサイ族から、いろんな意味を読み取ったりする。歴史から、文化から。受け取り方はそれぞれあっていい。植民地政策や経済的な問題とかも含めて。けれど遠く離れたマサイ族も、僕と同じ現在を生きるホモ・サピエンス。知恵と勇気を武器にする。
果たして僕は、男として世界に通用するのだろうか。そんなことも考える。果たして僕は、人類規模の視点で世の中を考察できているのだろうか。そんなことも考える。僕は「戦士」として生きているだろうか、「戦士」として生きていきたい、そんなことも考える。
なぜ今、ここで「マサイ族」に関心を持つのかは、さて置く。ただ、ふと僕らは、あの「マサイ族」から学ぶべきことがあるのではないか、と思ったのだ。あくまでも“ふと”だけれど。
◇おしまい
たとえ「マサイ族」が、現地ではしたたかに、観光客向けに衣装を着て、嫌々ジャンプし続けていたとしても。あるいは割りとスマホを駆使していたとしてもだ。僕らは時々、ケニアのマサイ族について思い起こす瞬間が、年に一回はあっていい。
僕にとってのその第一回目が、今日になる。晴れた東京の午後3時過ぎ、優しい風を受けながら僕は、遥か遠くの地、ケニアの戦士について思いを馳せる。そして温くなったアイスコーヒーを喉に通す。
東アフリカのケニア。人口約4000万人で、「キユク族」など部族は多数あり、「マサイ族」は“少数民族”になる。ただ、以前は民族間の境界はなかった。つまり同族だったのが、ケニアを植民地としていた英国人に便宜的に区分され、「マサイ族」が造られた。
ちなみにケニアが英国の保護領となったのは1902年。その前からはドイツからも侵入を受けていた。その前にはアラブ人が侵入。その前の15世紀末は、ヴァスコ・ダ・ガマの来航をきっかけに、ポルトガル人にも侵入されてきた。
15世紀初頭には、中国・明の鄭和の艦隊の一部が、ケニアに到達している。などを考え、さらに「スワヒリ文明」などを考えると、ケニアは実に昔から、グローバル化の波にさらされていたと言える。そして“グローバル化”促進を象徴するアメリカの、現大統領のオバマさんは、このケニアの血を引いている。つまり今度はケニアが出発地点となった。
以上のような分かったようで分かりにくい背景を持つケニアに、「マサイ族」はいる。ケニア南部から、タンザニア北部一帯の先住民族で、「マサイ」とは「マー語を話す人」の意味があるという。推定人口20ー30万人。
遊牧民だったマサイ族は、「非常に勇敢でプライドが高く、草原の貴族と呼ばれる」と、wikipedia先生は教えてくれる。そんな彼らが信仰するのは、アフリカ大陸最高峰・キリマンジャロ山頂上に座する「エン=カイ」という神という。
伝統的住居は、牛糞と泥をこねて作った掘っ立て小屋。集落「ボマ」は、この住居を円状に配置し、外側を木の柵で囲うのスタイルが伝統的。日暮れ時には、放牧する牛などの家畜を、猛獣などから守るために集落内に連れ戻す。
「牛」は通貨ともなり、牛を持たない男は、一生結婚はできない。逆に牛持ちはモテる。一夫多妻も可能だ。また男には「戦いのみが男の仕事」という伝統的価値観がある。だから武器以外の道具を持ち運ぶことすら恥とする。
だからマサイの男は、本来は猛獣退治や牛の放牧以外の労働はしない。他の仕事は女の仕事だ。けれど男は、守るべきときに守るべきものを命を懸けて戦った。時に実際、命を落とした。
伝統的な主食は牛乳と牛の生血。政治的には村ごとにいる長老が物事を決定する原始的な長老制。マサイ族の男は、生涯に一度は戦士階級「モラン」になる。伝統的な色は赤。男には、大人になる通過儀式として割礼がある。女も、性器に切り痕を入れる。「マサイ族」はそういう部族だった。
しかし列強による植民政策のあおりを受け、マサイ族の土地は、強制的に奪われてきた歴史がある。そして現在は、遊牧エリアとしていた多くは「動物保護区」や「国立公園」などに指定。以前のように遊牧生活は“違法行為”となってしまった。
さらには現在、ケニア・タンザニアの両政府により「定住化政策」が進行中。それゆえかつての伝統的生活スタイルは、着実に時とともに破壊されてきた。そんなわけで、「戦士」たちは農耕や観光ガイドなどをしなければ、生きて行けなくなっているのが現状だ。
「マサイ族」の観光ビジネス傘下化は、こうした事情がある。だから「観光客が来たら急いで服を着替え、槍を持つマサイ族」は、決して笑えない悲劇、哀しい物語なのだ。よく日本のテレビでは茶化しているけれど。
僕らはいろんな意味を受け取ることができる、マサイ族から、いろんな意味を読み取ったりする。歴史から、文化から。受け取り方はそれぞれあっていい。植民地政策や経済的な問題とかも含めて。けれど遠く離れたマサイ族も、僕と同じ現在を生きるホモ・サピエンス。知恵と勇気を武器にする。
果たして僕は、男として世界に通用するのだろうか。そんなことも考える。果たして僕は、人類規模の視点で世の中を考察できているのだろうか。そんなことも考える。僕は「戦士」として生きているだろうか、「戦士」として生きていきたい、そんなことも考える。
なぜ今、ここで「マサイ族」に関心を持つのかは、さて置く。ただ、ふと僕らは、あの「マサイ族」から学ぶべきことがあるのではないか、と思ったのだ。あくまでも“ふと”だけれど。
◇おしまい
「分析哲学」考。
「つまり、これはこういう理論だ!」と、一括りにはできないらしい「分析哲学」。どうとでも取れる思考法、世界把握とも言え、強引に「分析哲学」という言葉に押し込めた感が漂ってもいる。だからドラゴンボール的にたとえると、炊飯器に強敵を封じ込める必殺技「魔封波」的な。
そんな「分析哲学」について、ちょっくら整理してみる。なぜ整理してみているかは、うまく説明できないけれど、一度は脳ミソ内で「分析哲学」的知識をクルクル循環させておいた方が良いと思ったからだ。教養として、または新たな発見として。
まあ僕による僕のための“まとめ”である以上、大それた「分析哲学」考になるわけもなく、そこら辺にある素材をメモしてみる、という程度になる。というやや長めの前置きになりました。前置きの割にはとても短めの、僕的「分析哲学」整理。
まずは朝日新聞出版の「知恵蔵」による解説を、適当に端折ってみる。と、「分析哲学」は、「主に英米圏で広まり、現象学、実存の哲学、構造主義と並び、20世紀の大きな哲学潮流の1つ」。ふむふむ。
分析哲学は、「認識主観や個人の生、文化や社会のあり方よりも、思考の営みの根幹である人間の言語そのものに注目する」。なるほどなるほど。そしてその展開は、「ケンブリッジで20世紀初頭に現れたラッセルらの哲学から始まる」という。
英国貴族のバートランド・ラッセル(1872ー1970)は、1950年にノーベル文学賞受賞した論理学者。核技術・科学技術の平和宣言「ラッセル=アインシュタイン宣言」(1955)でも有名ですね。
そのラッセルは、“人生の意味は?”、“我々はどう生きるべきか?”といった「大陸の哲学、特にヘーゲル哲学をあいまいで非合理な哲学とみなした」。そして彼は、「言語からあいまいさを取り除き、数学的な記号の体系として厳密に整理すれば、哲学から非合理な思考は一掃されると考えた」。
ここまでで、だいぶ「知恵蔵」から文章を流用。けれど僕は、“分析哲学”的に、臆することなくそのまま流用し続けちゃうのです。あるいは手抜き的な。
合理的な思考を指向する「この発想は、ウィーンを中心に生まれた『論理実証主義』の運動に受け継がれ」た。この“論理実証主義者”の代表格として知られるのが、ドイツ人哲学者のルドルフ・カルナップ(1891-1970)。彼は40代半ばで渡米、後に米国に帰化をした。
そんな「カルナップらは、数学や論理学のような形式的に真偽が明確な命題と経験」が、思考時の基準・前提条件であるべきとした。数学や論理学を基礎とした方法論、つまり「その真偽が検証されるような命題との2種類の命題のみを有意味とした」。数学的、物理的、論理的に実証できない命題は、無意味とした。
知恵蔵での解説者は、「これは哲学の言語を科学の言語に切り詰める極端な見解でもあり、多くの批判を受けた」ことにも言及する。そしてその“極端な見解”はその後、「科学以外の言語表現、日常言語の重要性も指摘されるようになり、オースティンは数学や科学の言語以外の様々な言語行為が有意味であることを明らかにする『言語行為』論を打ち立てた」。という。流用終わり。
ここで登場するオースティンは、おバカ映画『オースティン・パワーズ』の主人公・オースティンではもちろんない。オックスフォード大学の教授を務めた英国人、ジョン・L・オースティン(1911ー1960)。オースティンは、「日常言語学派」の哲学者としても知られている。
また“話が飛ぶ系”だが、この「日常言語学派」という聞き慣れない学派は、「オックスフォード学派」とも呼ばれたりもするようだ。哲学とは思考すること、思考するとはコトバを組み立てること。コトバがほぼ全てとも言える。それゆえ「日常言語学派」は、哲学的諸課題の解決を、日常コトバの分析で図る“一派”とも言える。
分かったようで分からない印象を与える哲学。これが「日常言語学派」。言語、コトバが全てに先立つ。言語の理解なくして、哲学的思考はあり得ない。言語哲学とも言う。これを「分析哲学」と言う。僕のコトバの組み立て方、構造や使用法が、「分かったようで分からない印象」を強くしている。
お腹が減ったので、もうそろそろ終わりにかかろう。今回のテーマは「分析哲学」についてでした。なのに外せない『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインはついに登場できず、終わりに入っている。とにかく「分析哲学の中心は言語!」。
ラッセルらを基礎とし、ウィトゲンシュタインやカルナップを端緒とする考え方。その基礎は、観念よりも言語最優先。けれどその主張は多種多様。分析哲学とはだいたいそんな感じな感じだ。分析哲学的命題としては、存在論や倫理学、美学のほか、心理学や数学的哲学など、哲学のほぼ全てと言えるほど多岐におよぶ。
これを読んでも、きっと「へぇ、あっそ。」となる。僕の言語能力の問題、あるいは集中力の問題で。
◇おしまい
2012年6月7日木曜日
「金環食」最高!を再考。
世紀の天体ショー、金環食。それは宇宙の神秘。あるいは奇跡の瞬間。2012年5月21日(月)の朝の出来事でした。
その当日まで、あれだけ「金環食を直視したらダメ!」「最悪失明しちゃうよ!」と騒がれていたのに、その後30日に日本眼科学会が公表した報告によると、日食を見たことでの眼障害の症例が、全国で546報告されている。これは中間報告だから、実際にはもっと“やちゃってる人”はいると思う。
「ばかだなー」と、ちょっぴりそんな日本人にかわいさを感じ、笑ってしまうのはダメなのかも知れないけれど。 仮にその後遺症が「太陽系の壮大なプラン」に組み込まれた、“壮大なしょうがなさ”と認識できれば、もしかしたらそれは思い出の外国でタトゥーを彫るのと同じことのようにも思う。
さて、金環食。世界大百科事典によれば、「太陽本体(光球)の中央部の光を月が遮り,太陽の縁のみが金の環のように輝いて見える現象」のことだ。「地球上の観測地点から月と太陽の中心が一直線上に並ぶとき,月の見かけの大きさが太陽よりも大きければ皆既日食,小さければ金環食となる」。つまりは「太陽ー月ー地球」の大きさ、距離の絶妙な関係が、生み出す現象になる。
では「太陽と地球」「月と地球」の“絶妙な関係”とはどんなものか、メモしてみる。
・太陽:地球から約1億5000万km、直径約140万km(地球の約109倍)
・月:地球から約38万km、直径約3500km(地球の約4分の1)
ここから、こんな公式ができあがる。
・地球から太陽までの距離 : 地球から月までの距離 ≒ 400:1
・太陽の大きさ : 月の大きさ ≒ 400:1
ってことで、地球から見た太陽と月の大きさは、ほとんど同じになる。夜空に浮かぶ満月の大きさは、夕陽の大きさと同じに見える。
だから「太陽-月-地球」と一直線上に並べば日食が起こる。太陽と月の見かけの大きさが同じに見える地域では、太陽は月に隠され、皆既日食となる。また「太陽-地球-月」と一直線上に並べば、月食になる。
そんな“絶妙な関係”による天体ショーに、人は神を感じたりする。感じなかったりもする。けれどこの偶然は、極めて奇跡に近い、“あり得ない”バランスだと、僕は思う。実際、「日食」「月食」は、世界各地で神話を生んできた。
いつか太陽について、月について、のんびり考えてみたいと思う。恋愛問題など、物事を考えるときは、その対象物を見つめながらが一番のはずだけれど、唯一太陽だけは、見つめながらの考察は難しそう。でも今度やってみよう。宇宙の神秘を体に刻めるし。「太陽ー僕」一直線の“微妙な関係”も味わえそうだし。
◇おしまい
その当日まで、あれだけ「金環食を直視したらダメ!」「最悪失明しちゃうよ!」と騒がれていたのに、その後30日に日本眼科学会が公表した報告によると、日食を見たことでの眼障害の症例が、全国で546報告されている。これは中間報告だから、実際にはもっと“やちゃってる人”はいると思う。
「ばかだなー」と、ちょっぴりそんな日本人にかわいさを感じ、笑ってしまうのはダメなのかも知れないけれど。 仮にその後遺症が「太陽系の壮大なプラン」に組み込まれた、“壮大なしょうがなさ”と認識できれば、もしかしたらそれは思い出の外国でタトゥーを彫るのと同じことのようにも思う。
さて、金環食。世界大百科事典によれば、「太陽本体(光球)の中央部の光を月が遮り,太陽の縁のみが金の環のように輝いて見える現象」のことだ。「地球上の観測地点から月と太陽の中心が一直線上に並ぶとき,月の見かけの大きさが太陽よりも大きければ皆既日食,小さければ金環食となる」。つまりは「太陽ー月ー地球」の大きさ、距離の絶妙な関係が、生み出す現象になる。
では「太陽と地球」「月と地球」の“絶妙な関係”とはどんなものか、メモしてみる。
・太陽:地球から約1億5000万km、直径約140万km(地球の約109倍)
・月:地球から約38万km、直径約3500km(地球の約4分の1)
ここから、こんな公式ができあがる。
・地球から太陽までの距離 : 地球から月までの距離 ≒ 400:1
・太陽の大きさ : 月の大きさ ≒ 400:1
ってことで、地球から見た太陽と月の大きさは、ほとんど同じになる。夜空に浮かぶ満月の大きさは、夕陽の大きさと同じに見える。
だから「太陽-月-地球」と一直線上に並べば日食が起こる。太陽と月の見かけの大きさが同じに見える地域では、太陽は月に隠され、皆既日食となる。また「太陽-地球-月」と一直線上に並べば、月食になる。
そんな“絶妙な関係”による天体ショーに、人は神を感じたりする。感じなかったりもする。けれどこの偶然は、極めて奇跡に近い、“あり得ない”バランスだと、僕は思う。実際、「日食」「月食」は、世界各地で神話を生んできた。
いつか太陽について、月について、のんびり考えてみたいと思う。恋愛問題など、物事を考えるときは、その対象物を見つめながらが一番のはずだけれど、唯一太陽だけは、見つめながらの考察は難しそう。でも今度やってみよう。宇宙の神秘を体に刻めるし。「太陽ー僕」一直線の“微妙な関係”も味わえそうだし。
◇おしまい
2012年5月29日火曜日
なぜ僕は哲学を学ぶのか?考。
僕は社会人になって、もう一回大学生をすることにした。慶応義塾大学の文学部。哲学を学ぼうと、昨年2011年に入学、今年で2年目になる。僕が慶応義塾からどれほど知識を得ているかはさて置き、再び「大学生」となることで「哲学を学ぶ」「哲学を究める」というモチベーション維持には、大きく役立っている。
「学生」のご身分でメリットは多々あるにせよ、「そんなモチベーションのためだけに学費を納めるのは勿体ない」という人はいるだろう。そもそも「学生」の身分にならなければモチベーションを保てない程度なら、「学習・研究意欲がない証拠。だったら最初から止めてしまえ!」と言う人もいるかも知れない。いてもいい。
まあそれを言うなら、ロクに講義を聴かずにだらだら4年間大学に通うより、4年間毎日図書館に通って本を読み漁っているほうが、よっぽど教養的という気がする。人脈づくりや経験値向上、コミュニケーション能力醸成などは図書館では難しいけれど。ただし、そう毎日図書館に通って「ガクモン」できる人は、よっぽどアレな人だろう。
僕の場合、あっちの方面ではちょっとアレだけれど、そっち方面ではアレには至れなかった。アレじゃない人種にとっては、「学生」の区分に身を置くのは、結構アリだ。自己暗示にもかけられる。「おい!お前は学生なのだから、もっと必死になってガクモンしなさい」と自分を追い込めもできる。
アイデンティティをあえて、自由に、好きな枠組みに置く。それはできることとできないことがあるが、僕が再び学生という身分になることは、できた。もちろん学費が払えるという条件や、審査合格という条件、文字を読めたり書けたりする能力があるという条件など複合的な条件がクリアできたからではある。
だからインドネシアの農科大学に入学することは、僕にはできない。ロシアの宇宙飛行士になることも、僕にはできない。インドのバラモンになることも、僕には不可能だ。年齢的、言語能力的、人種的、宿命的なもの、あらゆる「的なもの」に縛られつつ、柵に囲われつつ、けれどもその中で僕なりに「僕が好きな身分」を求め、時にそれを得る。
求める、得る。聖書では「求めなさい。そうすれば、与えられる」とある。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と続く。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。かつて中東で、イエスはそう説教した。
けれど、当然、求める。けれど得られない。そんなことはザラだ。1億円求めて宝くじを買う、当たらない。就活をする、けれど職が得られない。考える、けれど答えは得られない。イエスは「魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」とうまいことを言ったが、実際は蛇以下のものになることもしょっちゅうだ。
哲学は奥深い。僕の奥深い問いを、僕は「哲学」と呼んでいるのかも知れない。とにかく僕に限った話ではないけれど、「求める。そして得られるもの」。「求める。けれど得られないもの」。どっちもある。できればどっちも得られるなら得たい。得られなければ「得られなくて良かった」と思い込みたい。パラダイムシフトの欲求。
そんなわけで、僕は「哲学」を学ぶ。学び、神に問うことになる。“求める。けれど得られない。”ってことはどーなのよ?と。そこで「神学」になる。「哲学は神学の婢」ということわざ通りになる。ならないかも知れない。僕は最終的には、トマス・アクィナスのこの言葉と向き合うことになる。そんな予感はしている。
◇おしまい
2012年5月28日月曜日
疲れる、とは何か考。
なぜ疲れるのか。生きていれば、ずっと動いていれば当たり前とも思うが、ふと「僕たちはどうして疲れなければならないのだろう」とも思う。睡眠の話にも近い気もするけれど。
「疲労」についてはいろいろ言われている。“wikipedia”でだけど。“痛み”と“発熱”に並ぶ、生命維持装置に欠かせない「3大アラーム」だとか。脳が主体的な疲労のことを「中枢性疲労」、肉体的に由来する疲労のことを「末梢性疲労」というのだとか。
また「生理的疲労」と「病的疲労」に区別もでき、病的疲労には発熱や記憶障害も起こることもある。同じ疲労でも、男性は無口になり“活動停止状態”に陥りがちだが、女性の場合は逆に“動的”で、他人に八つ当たりしやすいなどとも言われているそうだ。
「疲労」についても様々なメカニズム、ルートがありそうだが、恐らくおおよそはこんな感じになると思う。「ストレス→神経・免疫・内分泌系の異常→ウイルス再活性化→サイトカイン産生異常→神経細胞機能異常→疲労感」。
ここに出てくる「サトカイン」とは、免疫システムの細胞から分泌されるタンパク質のこと。僕らを構成する細胞の、増殖や分化、死、治癒などに関係する重要な高分子化合物だ。ストレスを受けると、このサトカインの分泌がおかしくなる。結果、僕らはヘロヘロになる。あくまでも一つのルートだけれど。
そう考えると、一番始めの「ストレス」がなければいい、ということになる。では「ストレス」って何? となる。で、1935年に「ストレス」の言葉を生み出した、カナダ人生理学者・ハンスさんの定義を借りてみると、「体外から加えられた要求に対する身体の非特異的な反応」となる。
ハンスさんは、反応を引き起こす刺激を「ストレッサー」、刺激に対して反応し、歪みを起こした状態のことを「ストレス」と区別した。だから「ストレス=刺激=有害」というわけでは、この時点ではない。実際僕は、結構刺激を求めているし、それが快感だ。喜びにつながり、「ストレス解消」になっている。
ただ、刺激にも限度がある。物理的、精神的に。その限度、許容量は人それぞれと思う。孫悟空なら死なない刺激で、クリリンなら死んでしまうこともある。ということになると、僕らにはそれぞれ、それぞれに合った、適度な「刺激」が求められ、適応能力を超えれば「疲労」につながる、ということなんですね。とまとめにかかる。まとめられそうにないけれど。
あるいは認知の仕方も「疲労」「ストレス」と関係がありそうだ。ある人には快感と思えることは、別の人には苦痛でしかないこともよくある話しだし。であれば、「あらゆる苦痛も快楽に感じれる認知術」があれば、僕らはかなり幸福な日々を過ごせそう。まあそのために僕は個人的に“修業”をしているのだし。
ここで言う“修業”は、たとえば色んな価値観を吸収し、あらゆる物事の知識を仕入れること、あるいは……。とにかく「プラス思考」を目指すプロセスになる。
うんぬん。かんぬん。そして話は「癒し」、飲み会やマッサージ、お笑い鑑賞などといった“疲労回復”に飛ぶ。飛んで止める。長くなる。けれど「疲労」と「回復」は、哲学的命題としてイコールだ。きっと。
いずれにせよ、「疲労」を思考していることで、僕は疲労してきた。ふぅ。だったら最初からよせば良かったのにね! 結局何もまとめられずにいることも、また疲労感を増量させてくれています。と「疲労」を実感するためのプロセスでした。
◇おしまい
2012年5月25日金曜日
なぜ寝る、起きるのか?論。
「おっはよーございま〜す!」と、大平原の空に向かって叫びたい。そんな夢想をしてしまうほどの、すがすがしい朝。対照的に僕の脳内は、超寝不足でドロドロで……という状況説明、言い訳から、この記事は始まります。眠すぎで妙なハイテンション。とりあえず叫びたい、けど叫べない、そんな一日のスタートライン。
こんな夢想もする。もし僕が今放った「おっはよーございま〜す!」の声が“誰か”へ届いてしまっているならば、それはどういうことだろう。つまり“誰か”がこのブログを読んでしまっているならば、それはどういうことだろう。僕は“誰か”を知ることはなく、“誰か”は僕にアクセスしちゃってる関係。
その“誰か”は僕にとっては、まるで地球をのぞき込んでる神、あるいは宇宙人に似ている。つまり「人間と宇宙人」の関係は、「書き手と読み手」の関係に近似している、と妄想を膨らませる。ちょっと不思議な感じだ。いや、これはだいぶ奇妙な関係だ。ただ、これは本題ではない。寝不足ゆえ、本題は「なぜ寝る、起きるのか?論」。
さて、現在の時刻は午前8時前。空は青く、太陽は眩しく、空気が澄んでいます。そして多くの「年金第二号被保険者」、すなわち「被雇用者」の皆さまにとっては、「さて出勤だぜ!」のお時間となっています。良くも悪くも、僕もその“働き人”に混じり、都心への「通勤電車乗車タイム」となっています。
いま目にしているほとんど人たちは、昨晩に寝、今朝に起き、トイレで用を足し、服を着て、家を出てきた人々だろう。自動車通勤や電車通勤、徒歩通勤でもいい。とにかく太陽が一日の始まりを告げると、僕らはいそいそと仕事へ向かう。または学校へ向かう。あるいはジョギングしに、あるいはスターバックスでコーヒー飲みに、あるいは……何でもいい。
ただ、きっとニートの方々は、まだ寝入ってる時間だ。起きなくても良いなら、寝た方がいい。なんなら昼過ぎで、やりすぎると夕方過ぎまで。僕も昔よくあった。昼夜逆転してれば、下手すると夜に寝、夜に起きる。時々自己嫌悪になるほど、いや毎日自己嫌悪したくなる生活サイクルになる、“だらしないニート”区分のみなさまの話、かつての僕の話だけれど。
でも、だらしない人でも、よっぽどのことがなければ、それでも目覚める。目覚めてしまう。一週間寝続けるのは無理だ。それが“仕事”であっても難しい。そもそも丸一日、24時間ぶっ通し睡眠、というのも基本的にない。経験的に。そして仮にあったとして、それは“日常”にはならない。なっていれば“よっぽど”な部類になる。
そこで僕は眠い頭で考える。なぜ「ぶっ通しで寝る」が“よっぽど”になるほど、僕らは眠られないのか。「ぶっ通し」が24時間、いや365日だとしても、宇宙の時間の流れを思えば、ほぼ一瞬。人は寝ていないに等しい。人に限らず、動物もそうだ。“1万年の眠り”なんてのは、聞いたことがない。
そこで調べてみる。眠い頭で。まず始めに「僕らはなぜ寝るか」。そして分かったことをメモしていく。「僕らはなぜ寝るか」。僕らが眠るのは、肉体的・精神的休息や回復、記憶の再構成といった目的があるが、いずれにせよ脳と関わっている。それは誰もが知っている。
脳ミソには多くのホルモンを分泌する「脳下垂体前葉」という部位がある。この部位から放出される成長ホルモンが、睡眠時は特に多く分泌。そのため肉体的ダメージの回復が促進され、「寝たら治る」になるようだ。ちなみに睡眠には「メラトニン」というホルモン、化合物も関連している。
それはそうだとして、実は「僕らはなぜ寝るのか」は、科学的にまだよく分かっていない部分が多いという。そもそも胎児だって、誰からも教えられていないのに、寝ている、本能的に。そこで「僕らはなぜ寝るのか」を別の問いに変換すると、「僕らはなぜ睡眠なしに生きていけないのか」「僕らはなぜ常時覚醒可能に進化できなかったのか」になる。進化論を前提にするとだけれど。
恐らく僕らの睡眠システムの進化は、太陽系の仕組みにも大きく影響しているだろう。夜寝る、朝起きるとは、太陽の出入りと関わるし、それが日光・明るさ、あるいは気温と関係するならば、「闇の中では起きていてもしょうがない」、「田植えだって月明かりだけではやりづらい」、「寒いからこもりたい」と、環境に合わせたライフスタイルで、進化的に折り合いがついたのかも知れない。
けれど夜行性動物や深海魚だって眠りはするから、そこらへんとどう折り合いをつければよいのだろうか。とりあえず寝ながら考えるしかない。もしくは、宗教的理由でも見つける他ないも知れない。
そんなだから、起きること、「覚醒」についても、色々議論はありそうだ。医学的、生理学的に解決できることも多いだろうけれど。
「僕らはなぜ起きるのか」。「目覚ましが鳴るから」「日差しが眩しいから」「ベッドから落ちたから」といった外部からの刺激や、「トイレに行きたくなったから」などの内部からの刺激もあるだろう。でもそれは誰でも経験的に知っているし、活用している。
「起きなければ何も始まらないじゃないか」と当たり前のことを思う。「僕らは睡眠から覚醒するから、自らのストーリーを生み出せるのだ」と思う。起きてこそ、「行動を起こし、知識を吸収し、物事を把握し、思考することができる。あるいは作品を創り、家庭を築き、年金分の給与を生めるのだ」と。
「覚醒」はすなわち、生きる本質ということだ。「覚醒」時間をより効果的に使うために、「睡眠」システムがある。「覚醒」の連続が人生になる。人生の認識になる。「覚醒」はけっしてパチンコやパチスロ「エヴァンゲリオン」での「大当たり確定」の意味だけではない。あるいは米英でのプロテスタント信仰リバイバルを指すのでもない。
「起きる」。そして「寝る」。起きたいから起きているし、寝たいから寝ている。生得的に。でも、ふと朝の通勤電車に揺られ、無理して起きている人や座って寝ている人を見て、その2つの行動原理について考えてみた。いや、正確に言えば言葉が浮かんだだけだけど。おやすみなさい。
◇おしまい
こんな夢想もする。もし僕が今放った「おっはよーございま〜す!」の声が“誰か”へ届いてしまっているならば、それはどういうことだろう。つまり“誰か”がこのブログを読んでしまっているならば、それはどういうことだろう。僕は“誰か”を知ることはなく、“誰か”は僕にアクセスしちゃってる関係。
その“誰か”は僕にとっては、まるで地球をのぞき込んでる神、あるいは宇宙人に似ている。つまり「人間と宇宙人」の関係は、「書き手と読み手」の関係に近似している、と妄想を膨らませる。ちょっと不思議な感じだ。いや、これはだいぶ奇妙な関係だ。ただ、これは本題ではない。寝不足ゆえ、本題は「なぜ寝る、起きるのか?論」。
さて、現在の時刻は午前8時前。空は青く、太陽は眩しく、空気が澄んでいます。そして多くの「年金第二号被保険者」、すなわち「被雇用者」の皆さまにとっては、「さて出勤だぜ!」のお時間となっています。良くも悪くも、僕もその“働き人”に混じり、都心への「通勤電車乗車タイム」となっています。
いま目にしているほとんど人たちは、昨晩に寝、今朝に起き、トイレで用を足し、服を着て、家を出てきた人々だろう。自動車通勤や電車通勤、徒歩通勤でもいい。とにかく太陽が一日の始まりを告げると、僕らはいそいそと仕事へ向かう。または学校へ向かう。あるいはジョギングしに、あるいはスターバックスでコーヒー飲みに、あるいは……何でもいい。
ただ、きっとニートの方々は、まだ寝入ってる時間だ。起きなくても良いなら、寝た方がいい。なんなら昼過ぎで、やりすぎると夕方過ぎまで。僕も昔よくあった。昼夜逆転してれば、下手すると夜に寝、夜に起きる。時々自己嫌悪になるほど、いや毎日自己嫌悪したくなる生活サイクルになる、“だらしないニート”区分のみなさまの話、かつての僕の話だけれど。
でも、だらしない人でも、よっぽどのことがなければ、それでも目覚める。目覚めてしまう。一週間寝続けるのは無理だ。それが“仕事”であっても難しい。そもそも丸一日、24時間ぶっ通し睡眠、というのも基本的にない。経験的に。そして仮にあったとして、それは“日常”にはならない。なっていれば“よっぽど”な部類になる。
そこで僕は眠い頭で考える。なぜ「ぶっ通しで寝る」が“よっぽど”になるほど、僕らは眠られないのか。「ぶっ通し」が24時間、いや365日だとしても、宇宙の時間の流れを思えば、ほぼ一瞬。人は寝ていないに等しい。人に限らず、動物もそうだ。“1万年の眠り”なんてのは、聞いたことがない。
そこで調べてみる。眠い頭で。まず始めに「僕らはなぜ寝るか」。そして分かったことをメモしていく。「僕らはなぜ寝るか」。僕らが眠るのは、肉体的・精神的休息や回復、記憶の再構成といった目的があるが、いずれにせよ脳と関わっている。それは誰もが知っている。
脳ミソには多くのホルモンを分泌する「脳下垂体前葉」という部位がある。この部位から放出される成長ホルモンが、睡眠時は特に多く分泌。そのため肉体的ダメージの回復が促進され、「寝たら治る」になるようだ。ちなみに睡眠には「メラトニン」というホルモン、化合物も関連している。
それはそうだとして、実は「僕らはなぜ寝るのか」は、科学的にまだよく分かっていない部分が多いという。そもそも胎児だって、誰からも教えられていないのに、寝ている、本能的に。そこで「僕らはなぜ寝るのか」を別の問いに変換すると、「僕らはなぜ睡眠なしに生きていけないのか」「僕らはなぜ常時覚醒可能に進化できなかったのか」になる。進化論を前提にするとだけれど。
恐らく僕らの睡眠システムの進化は、太陽系の仕組みにも大きく影響しているだろう。夜寝る、朝起きるとは、太陽の出入りと関わるし、それが日光・明るさ、あるいは気温と関係するならば、「闇の中では起きていてもしょうがない」、「田植えだって月明かりだけではやりづらい」、「寒いからこもりたい」と、環境に合わせたライフスタイルで、進化的に折り合いがついたのかも知れない。
けれど夜行性動物や深海魚だって眠りはするから、そこらへんとどう折り合いをつければよいのだろうか。とりあえず寝ながら考えるしかない。もしくは、宗教的理由でも見つける他ないも知れない。
そんなだから、起きること、「覚醒」についても、色々議論はありそうだ。医学的、生理学的に解決できることも多いだろうけれど。
「僕らはなぜ起きるのか」。「目覚ましが鳴るから」「日差しが眩しいから」「ベッドから落ちたから」といった外部からの刺激や、「トイレに行きたくなったから」などの内部からの刺激もあるだろう。でもそれは誰でも経験的に知っているし、活用している。
「起きなければ何も始まらないじゃないか」と当たり前のことを思う。「僕らは睡眠から覚醒するから、自らのストーリーを生み出せるのだ」と思う。起きてこそ、「行動を起こし、知識を吸収し、物事を把握し、思考することができる。あるいは作品を創り、家庭を築き、年金分の給与を生めるのだ」と。
「覚醒」はすなわち、生きる本質ということだ。「覚醒」時間をより効果的に使うために、「睡眠」システムがある。「覚醒」の連続が人生になる。人生の認識になる。「覚醒」はけっしてパチンコやパチスロ「エヴァンゲリオン」での「大当たり確定」の意味だけではない。あるいは米英でのプロテスタント信仰リバイバルを指すのでもない。
「起きる」。そして「寝る」。起きたいから起きているし、寝たいから寝ている。生得的に。でも、ふと朝の通勤電車に揺られ、無理して起きている人や座って寝ている人を見て、その2つの行動原理について考えてみた。いや、正確に言えば言葉が浮かんだだけだけど。おやすみなさい。
◇おしまい
2012年5月24日木曜日
なぜ松陰神社があるのか?論。
※この稿は、松陰神社の歴史解説はしておりません。なので答えにも辿り着きすらしていません。それはきっと今後の「なぜ?」シリーズ全てで言えるけど。
ふと松陰神社が気になって、神社について考えた。東京は世田谷・若林。松陰神社は僕が以前住んでいた場所の近くにあった。あの吉田松陰(1830ー1859、享年30)が祀られている。実は松陰神社は山口は萩市にもある。明治23年、1890年創建。こっちが本家っぽいが、世田谷の方が創建は8年古い。
急に話は「近代社格制度」というものに飛ぶ。明治4年に作られた“神社ランキング”制度だ。最上級はご存知、伊勢神宮で別格扱い。社格制度によれば、神社を大きく分けると「官社」と「諸社」。前者は国、諸社は県や村が管理する神社になる。官社>諸社。さらにそれぞれ大社、中社、小社がある。
整理すると、「官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社」。諸社は、「府社=県社=藩社>郷社>村社」のランキング。どうでもいい人にはどうでもいい序列でもある。でも寺院にも聖堂にも、そんなようなものがある。その確認だけしたくて、「近代社格制度」に触れてみた。
で、松陰神社。世田谷のは府社、萩のは県社。いずれにしても、“旧社格”だけれど。
でで、明治時代。30歳の若さで死んだ教育者・思想家が、神様になった。しかも官が管理する神社としてあった時代もある。これは考えてみれば不思議なことだ。キリスト教の「聖人」格と同じ位、理解しがたい宗教観なのだ、僕には。人間が神様になる、という発想は、菅原道真だったり、平将門だったり、何も松陰に限った話ではいのだけれど。
例えばギリシア神話。ゼウスとかアポロンとかの十二神。突っ込みどころ満載ではあるけど、この“神様”には、いくら偉人だとして、ジョン・レノンとか、黒澤明とかは並ばない。ギリシャ神にはならない。でも神道では、文字通り、神格化される。人が天照大神と同じ「神社」群の中で祀られる。もちろん「神仏習合」など仏教との絡みとか、政治的な絡みや分離を乗り越えた理論とか、もろもろ凄まじい部分もあるのだけれど、とりあえずここではそれは置く。
僕はそういう「あまりカッチリしていない」と言える神道に、「思考停止しているの? 大丈夫?」という疑問を持つ以上に、「なんて大らかな宗教なんだ」との感動すら覚える、本当に。あまりにも「大らか」過ぎで、小さな僕の思考容量をはるかに超えている。
僕はそんな宗教観あふれる日本で暮らす。神社の歴史、神社のオーラ。神道の深み、神道の美しさ。その奥義に少しでも近づくため、僕はこのブログ内でちょっとずつ、ちょっとずつ、「神道」についても整理していきたい。していけないかもだけれども。少なくとも、なぜ、松陰神社はあるのか、の答えは、ここにはありませんでした。
◇おしまい
2012年5月23日水曜日
なぜ風邪をひくのか?論。
サルトルの話はさておき、僕が風邪をひいてはや5日目。けっこう辛い。多分職場も、僕の鼻をかむ音に「お!いい音してんね~」と、イラつき始めているかも知れない。いや、「眠気覚ましにちょうどいいわガハハハハー」となってるかも知れない。いやそれはない。
とにかく、風邪はつらい。まず楽しくない。そのお陰で儲かりもしないし、美女との遭遇率が上がるわけでもない。で、医学的な要因以外に「なぜ、風邪をひいているのか」を、考えた。アタマの体調は絶不調だから、逆に新しい答えが見つかりそうだ。とは思ってないけど。
まず神学的、キリスト教的、予定説的に答えを探してみた。「これは神からの恵み」と、キリスト教信者は捉える。または「神の御心」とか「神の計画」とか。あるいは「神が理由あって与えた試練」とか。
その調子でいけば、僕の鼻水は聖水になり、朦朧とする思考回路は聖霊との接近につながるかも知れない。神はそれを望んでいる。そしてこうしてブログすることも“計画のうち”。誰かが、「なるほど!やっぱりキリスト教か!」と改心し、キリスト教信者になる助けになるだろう。
そうでなくて、僕が神について反省し、悔い改めるきっかけにもなるだろう。僕が産出する粘液や不快指数が、世界を救うアイテムとなる。なるか!
ちょい発想転換。仏教的に考えてみる。いや実存主義的に考えてみる。いや唯物論的に考えてみる。いやスコラ哲学的に、いやポストモダニズム的に……。視界ぐるぐる。
だんだん脳ミソが溶けてくるような感覚になってきた。これも風邪という現象がもたらす作用なのだろう。仕方がない。答えもなく綴り始めた文章だって、中途半端に終わらせることだってできる。風邪という生理システムでは、ある程度のことまで許されてしまうのだから。誰に?自分にだ。
自分が自分を許す、許さざるを得ない、自分しか許す者がいない。ゆえに孤独な存在を自覚する。そんな孤独の中で、神と対話する。「あなたはなぜ風邪をつくり給うたか」。神は答える。「神が栄光を受けるためである」。なんてことが、「ヨハネの福音書」にある。
聖書は一応、いろいろ答えを用意してくれている。ここまで普及するだけの「神的論理」は整えられている。モルモン教とか、幸福の科学とかでは、どんな答えが用意されているか知らないけれど。
僕の体は、あるウィルスに感染。僕の名付けてすらいない細胞たちが、健気にウィルスと戦っている。つまり悪玉排除機能がONにされ、生命維持システムが稼働している。僕の意志や機能設計能力、同能力付与方法などと無関係にだ。
若々しい緑が眩しい皐月。日本、東京。金環食が先日見れた。宇宙の神秘。その一部であるはずの僕は…風邪をひいている。しつこいくらいにその事実を確かめる。そして「なぜ、風邪をひくのか」の答えを、路上の水たまりほどの浅い知識で追い求める。
頭ぐるぐる。鼻水ずるずる。やがて「やっぱどーでも良くね?」となる。「どーにでも採れなくね?」となる。解釈学になる。解釈学って何だ?、てなる。てなる。って何だ?となる。謎は謎のままにする。いや、そんなに謎でもなかった謎だ。
なぜ僕は、風邪をひくのか? もちろん僕を含む僕以外の人には、どーでもいい話だ。うん。ぐほっ。じゅるる。
◇おしまい
とにかく、風邪はつらい。まず楽しくない。そのお陰で儲かりもしないし、美女との遭遇率が上がるわけでもない。で、医学的な要因以外に「なぜ、風邪をひいているのか」を、考えた。アタマの体調は絶不調だから、逆に新しい答えが見つかりそうだ。とは思ってないけど。
まず神学的、キリスト教的、予定説的に答えを探してみた。「これは神からの恵み」と、キリスト教信者は捉える。または「神の御心」とか「神の計画」とか。あるいは「神が理由あって与えた試練」とか。
その調子でいけば、僕の鼻水は聖水になり、朦朧とする思考回路は聖霊との接近につながるかも知れない。神はそれを望んでいる。そしてこうしてブログすることも“計画のうち”。誰かが、「なるほど!やっぱりキリスト教か!」と改心し、キリスト教信者になる助けになるだろう。
そうでなくて、僕が神について反省し、悔い改めるきっかけにもなるだろう。僕が産出する粘液や不快指数が、世界を救うアイテムとなる。なるか!
ちょい発想転換。仏教的に考えてみる。いや実存主義的に考えてみる。いや唯物論的に考えてみる。いやスコラ哲学的に、いやポストモダニズム的に……。視界ぐるぐる。
だんだん脳ミソが溶けてくるような感覚になってきた。これも風邪という現象がもたらす作用なのだろう。仕方がない。答えもなく綴り始めた文章だって、中途半端に終わらせることだってできる。風邪という生理システムでは、ある程度のことまで許されてしまうのだから。誰に?自分にだ。
自分が自分を許す、許さざるを得ない、自分しか許す者がいない。ゆえに孤独な存在を自覚する。そんな孤独の中で、神と対話する。「あなたはなぜ風邪をつくり給うたか」。神は答える。「神が栄光を受けるためである」。なんてことが、「ヨハネの福音書」にある。
聖書は一応、いろいろ答えを用意してくれている。ここまで普及するだけの「神的論理」は整えられている。モルモン教とか、幸福の科学とかでは、どんな答えが用意されているか知らないけれど。
僕の体は、あるウィルスに感染。僕の名付けてすらいない細胞たちが、健気にウィルスと戦っている。つまり悪玉排除機能がONにされ、生命維持システムが稼働している。僕の意志や機能設計能力、同能力付与方法などと無関係にだ。
若々しい緑が眩しい皐月。日本、東京。金環食が先日見れた。宇宙の神秘。その一部であるはずの僕は…風邪をひいている。しつこいくらいにその事実を確かめる。そして「なぜ、風邪をひくのか」の答えを、路上の水たまりほどの浅い知識で追い求める。
頭ぐるぐる。鼻水ずるずる。やがて「やっぱどーでも良くね?」となる。「どーにでも採れなくね?」となる。解釈学になる。解釈学って何だ?、てなる。てなる。って何だ?となる。謎は謎のままにする。いや、そんなに謎でもなかった謎だ。
なぜ僕は、風邪をひくのか? もちろん僕を含む僕以外の人には、どーでもいい話だ。うん。ぐほっ。じゅるる。
◇おしまい
2012年5月22日火曜日
なぜ、なぜが、なぜなのか?
なぜ、僕はブログをしているのか。
誰も読まないのにも関わらず。すなわちサーバーの電気代が無駄になるにも関わらず。そう、僕のこの行為は地球環境に悪いかも知れない、現実的に。少なくともエコではない、控えめに。
となると、僕が無駄にブログをアップするたび、ちょっと世界や宇宙は哀しくなる。多分僕に食べられた牛や豚たちは、こんな不毛なことのために身を捧げたつもりはないだろう。通信システムやデータ保存システムを可能・維持するエネルギー源だって、無限にあるわけじゃないし。お腹を痛めて僕を産んでくれた母親も、こんな「よくわからないブログをアップするため」に悪阻や陣痛を堪えてたわけではないと思う。
けれど世の中うまくできていて、僕がこんな“いつまで続くか不明、かつ意味不明”なブログを読みさえしなければ誰も、不毛な行為をしている男の存在には気付かない。つまり有限かも知れない宇宙エネルギーの無駄使いをしていることは、誰も気付かないでいられる。そしてこのブログに気付き、読み進めた時点で、「誰か」は僕のある種テロ的な“さまざまの浪費”に汲みすることになる。。。
とりあえず、いつも疑問だらけ。自分自身についてもそーなのです。いや、自身にこそ色々訊きたい。
なぜ生きているのか。
なぜ生きていけるのか。
なぜマトモに生きれないのか。
そんなことを、何も公開することはないのだけれど、思考日記のように書き続けていく。ちなみにブラジルやロシア、宇宙ステーションでも、ネットで見られる「公開」ブログとは言え、ほとんど「非公開」に等しいもの。「存在に気付かれなければ、存在しないのも同じなのか?」という問いの答えが、いずれ出てくるかも知れない。
ところで何がテーマの記事なのか? なぜ「なぜが、なぜなのか?」。どこか意味深げ、のよう。汲み取る意味は、意味を汲み取る人の能力や知識に依るけれど、今のところ「意味不明」と捉える方が、恐らく正解だ。
人はあまり意味なくても生きられる。厳密には“生きている意味”を答えられなくても、命を断つまでに至らなくてもよい人が大勢いる。
なぜだろう?
もろもろの答えはまだ、ここでは出さず、いずれ考察していきたい。
・人が生きる意味は?
・生きるとは何か?
・時間とは何か?
・存在するとは何なのか?
・神と時間と存在の関係は?
・精神的世界の物理的限界は?
・宇宙と地球の始まり、終わりは?
・「愛」とは何か?
・人間の宿命と自分の宿命は?
・「気の世界」とその可能性は?
・なぜ人は宗教や神を求めるのか?
・なぜ神は人間と会話しないのか?
・なぜ僕はブログをしているのか?
・なぜ通勤中にそれをしてんのか?
・なぜ、なぜが、なぜなのか?
とりあえず「なぜ」を挙げていく、そして一つ一つ考えていく、そんな認知症予防を兼ねたトレーニング。ちなみに「なぜ名瀬が、NAZEなのか」だと、なんだかキチンとした問いになった気にもなる。ならないかも知れない。
◇おしまい
誰も読まないのにも関わらず。すなわちサーバーの電気代が無駄になるにも関わらず。そう、僕のこの行為は地球環境に悪いかも知れない、現実的に。少なくともエコではない、控えめに。
となると、僕が無駄にブログをアップするたび、ちょっと世界や宇宙は哀しくなる。多分僕に食べられた牛や豚たちは、こんな不毛なことのために身を捧げたつもりはないだろう。通信システムやデータ保存システムを可能・維持するエネルギー源だって、無限にあるわけじゃないし。お腹を痛めて僕を産んでくれた母親も、こんな「よくわからないブログをアップするため」に悪阻や陣痛を堪えてたわけではないと思う。
けれど世の中うまくできていて、僕がこんな“いつまで続くか不明、かつ意味不明”なブログを読みさえしなければ誰も、不毛な行為をしている男の存在には気付かない。つまり有限かも知れない宇宙エネルギーの無駄使いをしていることは、誰も気付かないでいられる。そしてこのブログに気付き、読み進めた時点で、「誰か」は僕のある種テロ的な“さまざまの浪費”に汲みすることになる。。。
とりあえず、いつも疑問だらけ。自分自身についてもそーなのです。いや、自身にこそ色々訊きたい。
なぜ生きているのか。
なぜ生きていけるのか。
なぜマトモに生きれないのか。
そんなことを、何も公開することはないのだけれど、思考日記のように書き続けていく。ちなみにブラジルやロシア、宇宙ステーションでも、ネットで見られる「公開」ブログとは言え、ほとんど「非公開」に等しいもの。「存在に気付かれなければ、存在しないのも同じなのか?」という問いの答えが、いずれ出てくるかも知れない。
ところで何がテーマの記事なのか? なぜ「なぜが、なぜなのか?」。どこか意味深げ、のよう。汲み取る意味は、意味を汲み取る人の能力や知識に依るけれど、今のところ「意味不明」と捉える方が、恐らく正解だ。
人はあまり意味なくても生きられる。厳密には“生きている意味”を答えられなくても、命を断つまでに至らなくてもよい人が大勢いる。
なぜだろう?
もろもろの答えはまだ、ここでは出さず、いずれ考察していきたい。
・人が生きる意味は?
・生きるとは何か?
・時間とは何か?
・存在するとは何なのか?
・神と時間と存在の関係は?
・精神的世界の物理的限界は?
・宇宙と地球の始まり、終わりは?
・「愛」とは何か?
・人間の宿命と自分の宿命は?
・「気の世界」とその可能性は?
・なぜ人は宗教や神を求めるのか?
・なぜ神は人間と会話しないのか?
・なぜ僕はブログをしているのか?
・なぜ通勤中にそれをしてんのか?
・なぜ、なぜが、なぜなのか?
とりあえず「なぜ」を挙げていく、そして一つ一つ考えていく、そんな認知症予防を兼ねたトレーニング。ちなみに「なぜ名瀬が、NAZEなのか」だと、なんだかキチンとした問いになった気にもなる。ならないかも知れない。
◇おしまい
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