2012年5月25日金曜日

なぜ寝る、起きるのか?論。

「おっはよーございま〜す!」と、大平原の空に向かって叫びたい。そんな夢想をしてしまうほどの、すがすがしい朝。対照的に僕の脳内は、超寝不足でドロドロで……という状況説明、言い訳から、この記事は始まります。眠すぎで妙なハイテンション。とりあえず叫びたい、けど叫べない、そんな一日のスタートライン。

こんな夢想もする。もし僕が今放った「おっはよーございま〜す!」の声が“誰か”へ届いてしまっているならば、それはどういうことだろう。つまり“誰か”がこのブログを読んでしまっているならば、それはどういうことだろう。僕は“誰か”を知ることはなく、“誰か”は僕にアクセスしちゃってる関係。

その“誰か”は僕にとっては、まるで地球をのぞき込んでる神、あるいは宇宙人に似ている。つまり「人間と宇宙人」の関係は、「書き手と読み手」の関係に近似している、と妄想を膨らませる。ちょっと不思議な感じだ。いや、これはだいぶ奇妙な関係だ。ただ、これは本題ではない。寝不足ゆえ、本題は「なぜ寝る、起きるのか?論」。

さて、現在の時刻は午前8時前。空は青く、太陽は眩しく、空気が澄んでいます。そして多くの「年金第二号被保険者」、すなわち「被雇用者」の皆さまにとっては、「さて出勤だぜ!」のお時間となっています。良くも悪くも、僕もその“働き人”に混じり、都心への「通勤電車乗車タイム」となっています。

いま目にしているほとんど人たちは、昨晩に寝、今朝に起き、トイレで用を足し、服を着て、家を出てきた人々だろう。自動車通勤や電車通勤、徒歩通勤でもいい。とにかく太陽が一日の始まりを告げると、僕らはいそいそと仕事へ向かう。または学校へ向かう。あるいはジョギングしに、あるいはスターバックスでコーヒー飲みに、あるいは……何でもいい。

ただ、きっとニートの方々は、まだ寝入ってる時間だ。起きなくても良いなら、寝た方がいい。なんなら昼過ぎで、やりすぎると夕方過ぎまで。僕も昔よくあった。昼夜逆転してれば、下手すると夜に寝、夜に起きる。時々自己嫌悪になるほど、いや毎日自己嫌悪したくなる生活サイクルになる、“だらしないニート”区分のみなさまの話、かつての僕の話だけれど。

でも、だらしない人でも、よっぽどのことがなければ、それでも目覚める。目覚めてしまう。一週間寝続けるのは無理だ。それが“仕事”であっても難しい。そもそも丸一日、24時間ぶっ通し睡眠、というのも基本的にない。経験的に。そして仮にあったとして、それは“日常”にはならない。なっていれば“よっぽど”な部類になる。

そこで僕は眠い頭で考える。なぜ「ぶっ通しで寝る」が“よっぽど”になるほど、僕らは眠られないのか。「ぶっ通し」が24時間、いや365日だとしても、宇宙の時間の流れを思えば、ほぼ一瞬。人は寝ていないに等しい。人に限らず、動物もそうだ。“1万年の眠り”なんてのは、聞いたことがない。

そこで調べてみる。眠い頭で。まず始めに「僕らはなぜ寝るか」。そして分かったことをメモしていく。「僕らはなぜ寝るか」。僕らが眠るのは、肉体的・精神的休息や回復、記憶の再構成といった目的があるが、いずれにせよ脳と関わっている。それは誰もが知っている。

脳ミソには多くのホルモンを分泌する「脳下垂体前葉」という部位がある。この部位から放出される成長ホルモンが、睡眠時は特に多く分泌。そのため肉体的ダメージの回復が促進され、「寝たら治る」になるようだ。ちなみに睡眠には「メラトニン」というホルモン、化合物も関連している。

それはそうだとして、実は「僕らはなぜ寝るのか」は、科学的にまだよく分かっていない部分が多いという。そもそも胎児だって、誰からも教えられていないのに、寝ている、本能的に。そこで「僕らはなぜ寝るのか」を別の問いに変換すると、「僕らはなぜ睡眠なしに生きていけないのか」「僕らはなぜ常時覚醒可能に進化できなかったのか」になる。進化論を前提にするとだけれど。

恐らく僕らの睡眠システムの進化は、太陽系の仕組みにも大きく影響しているだろう。夜寝る、朝起きるとは、太陽の出入りと関わるし、それが日光・明るさ、あるいは気温と関係するならば、「闇の中では起きていてもしょうがない」、「田植えだって月明かりだけではやりづらい」、「寒いからこもりたい」と、環境に合わせたライフスタイルで、進化的に折り合いがついたのかも知れない。

けれど夜行性動物や深海魚だって眠りはするから、そこらへんとどう折り合いをつければよいのだろうか。とりあえず寝ながら考えるしかない。もしくは、宗教的理由でも見つける他ないも知れない。

そんなだから、起きること、「覚醒」についても、色々議論はありそうだ。医学的、生理学的に解決できることも多いだろうけれど。

「僕らはなぜ起きるのか」。「目覚ましが鳴るから」「日差しが眩しいから」「ベッドから落ちたから」といった外部からの刺激や、「トイレに行きたくなったから」などの内部からの刺激もあるだろう。でもそれは誰でも経験的に知っているし、活用している。

「起きなければ何も始まらないじゃないか」と当たり前のことを思う。「僕らは睡眠から覚醒するから、自らのストーリーを生み出せるのだ」と思う。起きてこそ、「行動を起こし、知識を吸収し、物事を把握し、思考することができる。あるいは作品を創り、家庭を築き、年金分の給与を生めるのだ」と。

「覚醒」はすなわち、生きる本質ということだ。「覚醒」時間をより効果的に使うために、「睡眠」システムがある。「覚醒」の連続が人生になる。人生の認識になる。「覚醒」はけっしてパチンコやパチスロ「エヴァンゲリオン」での「大当たり確定」の意味だけではない。あるいは米英でのプロテスタント信仰リバイバルを指すのでもない。

「起きる」。そして「寝る」。起きたいから起きているし、寝たいから寝ている。生得的に。でも、ふと朝の通勤電車に揺られ、無理して起きている人や座って寝ている人を見て、その2つの行動原理について考えてみた。いや、正確に言えば言葉が浮かんだだけだけど。おやすみなさい。

◇おしまい