サルトルの命日に近い日付を誕生日とする筆者の僕は、「実存主義」についてツラツラ綴る前に、まず魅力的な人生を送ったサルトルの日々を俯瞰してみる。そもそも僕が「実存主義」に関心があることに、また勝手に哲学ブログを展開することに、世界約70億人のほとんどが、関心ないことは知っているのだけれど。。。
まずはサルトル記 哲学科教師になるまで。夏目漱石が新聞で「吾輩は猫である」を連載開始させた頃、日露戦争が本格化していた頃。1905年、フランスのパリで生まれたのがサルトル(-1980年)だ。“お父様”は海軍将校。“お母様”は、アフリカで医療と伝道に生きたシュバイツァーの親族。生後まもなく母子家庭となり、サルトルは知識人階級のシュバイツァー家で育てられた。
1915年、サルトルは「ルイ大王学院」とも呼ばれるエリート養成学校「ルセ・ルイ=ル=グラン」に入学。パリの伝統的学生街、カルチェ・ラタンの中心で教養を育んだ。ちなみにこのイエズス会の学校からは、「レ・ミゼラブル」の文豪ヴィクトル・ユゴーや、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」の哲学者ヴォルテールが卒業している。
だがパリでの学びは2年で中断。“お母様”の再婚にともない、海に近い地方へ引っ越し、転校したからだ。それを機に、サルトルはグレた。“秀才”だった子が“悪童”になったことを案じた“お母様”は、「しょうがないわね。あなたはパリに戻って良いわよ」と、サルトルをパリへ帰した。でサルトルは1920年に、「ルセ・ルイ=ル=グラン」に編入した。“悪童”は“秀才”へと復帰した。
1924年、サルトル19歳、「ENS」と呼ばれるグランゼコール「高等師範学校」の学生となる。サルトルは学校の教員を目指した。刺激的な学生生活。パリのカフェで級友たちと酒を飲み、哲学的議論をし、親友とドイツ文献をフランス語訳にしたりした。
学校の先生になるためには「アグレガシオン」という教員資格が必要だが、1928年の試験で、サルトルは落第した。もしかしたら初めての大きな挫折だったかも知れない。けれどその落第のお陰かも知れないが、彼はこの“浪人”時期に才色兼備のボーヴォワールと知り合った。1929年の試験では、サルトルは首席合格、ボーヴォワールは次席合格。「やったね!」と言い合ったついでではないけれど、同年二人は、「2年間の契約結婚」を開始した。
◇つづく