フランス人哲学者のサルトルで知られる「実存主義(existentialism)」。彼曰く、「実存は本質に先立つ」という考えだ。
サルトルはその言葉において、「価値の前に物事が存在している」、「物事が始めにあって、意味や価値が後付けされる」という主張を放つ。そして僕はその思考軸・世界観から、高校時代より抜け出せないでいる。それは無神論でもある。
けれど無神論を突き詰めると、結構きつい現実や科学的事実にも出くわす。あるいは、ある種の思考停止が無神論に行き着くのではないか、とも思ったりする。“有神論”でもそうだけど。
「実存主義」について考えるとき、サルトルの“嫁さん”だったボーヴォワールの有名な言葉が分かりやすい。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。人は親に育てられ、社会的規範の中に生き、生活圏での言語で思考する。彼女の言葉を借りると、「僕は僕に生まれたのではない」「僕が僕を作っていくのだ」。
今回から、恐らく飛び飛びで、もしかしたら途中で終了してしまうかも、ないい加減な感じで、「実存主義」について考えたり、整理したりしてみる。そして「僕が実存主義について考えてみる」ことにおける意味は、もちろん後付けされることになる、実存主義的に。
◇つづく