2012年5月23日水曜日

なぜ風邪をひくのか?論。

サルトルの話はさておき、僕が風邪をひいてはや5日目。けっこう辛い。多分職場も、僕の鼻をかむ音に「お!いい音してんね~」と、イラつき始めているかも知れない。いや、「眠気覚ましにちょうどいいわガハハハハー」となってるかも知れない。いやそれはない。

とにかく、風邪はつらい。まず楽しくない。そのお陰で儲かりもしないし、美女との遭遇率が上がるわけでもない。で、医学的な要因以外に「なぜ、風邪をひいているのか」を、考えた。アタマの体調は絶不調だから、逆に新しい答えが見つかりそうだ。とは思ってないけど。

まず神学的、キリスト教的、予定説的に答えを探してみた。「これは神からの恵み」と、キリスト教信者は捉える。または「神の御心」とか「神の計画」とか。あるいは「神が理由あって与えた試練」とか。

その調子でいけば、僕の鼻水は聖水になり、朦朧とする思考回路は聖霊との接近につながるかも知れない。神はそれを望んでいる。そしてこうしてブログすることも“計画のうち”。誰かが、「なるほど!やっぱりキリスト教か!」と改心し、キリスト教信者になる助けになるだろう。

そうでなくて、僕が神について反省し、悔い改めるきっかけにもなるだろう。僕が産出する粘液や不快指数が、世界を救うアイテムとなる。なるか!

ちょい発想転換。仏教的に考えてみる。いや実存主義的に考えてみる。いや唯物論的に考えてみる。いやスコラ哲学的に、いやポストモダニズム的に……。視界ぐるぐる。

だんだん脳ミソが溶けてくるような感覚になってきた。これも風邪という現象がもたらす作用なのだろう。仕方がない。答えもなく綴り始めた文章だって、中途半端に終わらせることだってできる。風邪という生理システムでは、ある程度のことまで許されてしまうのだから。誰に?自分にだ。
 
自分が自分を許す、許さざるを得ない、自分しか許す者がいない。ゆえに孤独な存在を自覚する。そんな孤独の中で、神と対話する。「あなたはなぜ風邪をつくり給うたか」。神は答える。「神が栄光を受けるためである」。なんてことが、「ヨハネの福音書」にある。

聖書は一応、いろいろ答えを用意してくれている。ここまで普及するだけの「神的論理」は整えられている。モルモン教とか、幸福の科学とかでは、どんな答えが用意されているか知らないけれど。

僕の体は、あるウィルスに感染。僕の名付けてすらいない細胞たちが、健気にウィルスと戦っている。つまり悪玉排除機能がONにされ、生命維持システムが稼働している。僕の意志や機能設計能力、同能力付与方法などと無関係にだ。

若々しい緑が眩しい皐月。日本、東京。金環食が先日見れた。宇宙の神秘。その一部であるはずの僕は…風邪をひいている。しつこいくらいにその事実を確かめる。そして「なぜ、風邪をひくのか」の答えを、路上の水たまりほどの浅い知識で追い求める。

頭ぐるぐる。鼻水ずるずる。やがて「やっぱどーでも良くね?」となる。「どーにでも採れなくね?」となる。解釈学になる。解釈学って何だ?、てなる。てなる。って何だ?となる。謎は謎のままにする。いや、そんなに謎でもなかった謎だ。

なぜ僕は、風邪をひくのか?  もちろん僕を含む僕以外の人には、どーでもいい話だ。うん。ぐほっ。じゅるる。


◇おしまい