2012年12月13日木曜日

スペインの現代哲学者について


さて、突然ですがスペインを代表する哲学者は誰でしょう? と訊かれても、僕は「うーん、誰がいたっけ」と即答しかねていた。哲学と言えばドイツ哲学やフランス哲学とかの“有名人”はすぐ頭に浮かぶのだけれど。僕の無知はさておき、もちろんスペインにも、そしてけっこう「哲学者」はいる。

今回はその一人、ミゲル・デ・ウナムーノ・イ・フーゴ(1864-1936)についての情報整理。それも23段落とかなり長文の整理になりますが。はい、このミゲルさんは「スペインを代表する哲学者」または「スペインを代表する文学者」とされているお方だ。詩人でもあり、劇作家でもあった。そして濃い人生を送った。

ミゲルさんは、いわゆる「98年の世代」にあたる。1898年、米西戦争が起きた年。日本では明治31年。「98年の世代」については世界大百科事典によれば、「1898年の米西戦争の敗北で祖国が最後の植民地を失ったとき、スペインの後進性を痛感し、苦悩のうちに未来を模索した作家たちを〈98年世代〉と呼ぶ」とある。

特定の思想家や芸術家ら一群に付けられた呼称「98年の世代」。その中心となったのは「《生の悲劇的感情》で理性と信仰の葛藤を論じ、それをヨーロッパとスペインとの関係にまで広げたM.deウナムノ…省略…らである」。ここではミゲルさんは「M.deウナムノ」と呼ばれているようです。

調べてみると、ミゲル・デ・ウナムーノ・イ・フーゴさん、「ウナムーノ」の呼び名が一般的。彼は“スペイン思想界に大きな影響を残した一人”で、「思想面では哲学と詩の両面から生と死、あるいは自己の問題などに取り組み、実存主義的な思想家として知られる」(wikipedia)。ん、知ってました?

スペインの現代思想家「ウナムーノ」。僕はつい先日、知りました。彼の生まれは、現在も独立運動でも有名な、スペイン北部・バスク地方のビルバオ。ピカソの絵で知られるゲルニカから約20キロ西の場所にある。この都市は現在、“スペイン北部屈指の港湾都市”で、鉄鋼業が盛んなようです。

ちなみにピカソの『ゲルニカ』に触れておくと、「スペイン内戦」の1937年、フランコ将軍を支援するナチスがゲルニカを空爆。その「史上初の都市無差別空爆」を聞いたピカソが抱いた激しい感情・思いをぶつけた絵が『ゲルニカ』だ。今回の“主人公”ウナムーノは出身地近郊で起きたこの空爆の前年に他界している。

話は1880年、あるいは僕が横浜で生まれたちょうど100年前に戻ります。ウナムーノはスペインで2番目に古い歴史のマドリード大学へ入学し、文学・哲学・言語学を専攻。で、その後を端折ると、彼は博士号を取得後、個人教授となります。そして社会主義に傾倒したり、結婚したり。やがて名門サラマンカ大学で、ギリシア語の教授に就任。

1895年、日本では明治28年、ウナムーノは『生粋主義について』を発表。これは、「スペインの歴史を振り返り、真のスペイン思想やスペイン国家とは何かを説いた著作」(wikipedia)で大きな反響を呼ぶ。その翌年もウナムーノ史での重大出来事。誕生した息子が、脳水腫で他界した。このことは、彼に「死」の問題を突きつけた。

ところでウナムーノが教授に就任したサラマンカ大学は、1218年設立の現存するスペイン最古の大学だ。「知識を欲する者はサラマンカへ行け」と言わしめた名門校で、オックスフォード大学やパリ大学、ボローニャ大学などとともに欧州でも設立の古い大学の1つと知られている。ん、これは知ってました。

このサラマンカ大学は、サラマンカの旧市街とともにユネスコの世界遺産に登録。スペインの大航海時代は天文学などに基づいた航海計画などで支え、宗教改革後は欧州におけるカトリック神学の中心地としてカトリックを支えた。スペインの繁栄を支えた智の殿堂と言える。

そんなサラマンカ大学の総長に1900年、ウナムーノは選出。つまりスペインの知の最高峰の最高位に就任した。この頃に「実存主義の創始者」あるいは『死に至る病』(1849)で有名なキルケゴール(1813 - 1855)の哲学を知り、デンマーク語を修得。キルケゴールの思想は、ウナムーノの実存主義的な思想に多大な影響を及ぼした。

「ウナムーノはヨーロッパ思想界の中でもかなり早い時期からキルケゴールの思想の独自性に注目していた先駆的な存在であった」との記述もあるように、いま多くに知られたキルケゴールと、“当時のキルケゴール”は、きっと違う。そんな中で彼は彼を見出した。ウナムーノ、キルケゴールを発見。

生誕40周年の1904年、日本では日露戦争開戦の年、ウナムーノは『ドン・キホーテとサンチョの生涯』を執筆。この著書は、ウナムーノの代表的な作品と言われる。セルバンテスが描いた「ドン・キホーテ」の生き方に、真のスペイン人としての生き方・倫理観がある、とのウナムーノの考えが反映されている、という。

『ドン・キホーテとサンチョの生涯』。ウナムーノは、自らを伝説の騎士と思い込んだ主人公「ドン・キホーテ」を自分流に解釈し、人生や死の問題、あるいは自己というものにアプローチした、ようだ。で、その後『人間と民族における生の悲劇的感情』(生の悲劇的感情)を出版。これはこれで彼の哲学の代表作となった。

駆け足の“ウナムーノ史”となっている。1914年、第一次世界大戦が勃発。その年、ウナムーノは「反政府的」という理由で、大学総長を罷免される。独裁政権を強く批判していたことが響いたのだ。さらにはサラマンカからの追放も決まり、カナリア諸島への島送りされた。最も大陸に近い島でも、アフリカ大陸から100km強の距離の諸島へ。

後にカナリア諸島から脱出したものの、1930年までフランスで亡命生活を余儀なくされる……。そんな彼の人生をざっと眺めていると、「人生何が起こるか分からない」と思う。なぜなら、この一連の政治的事件で、ウナムーノに一層注目が集まることになったからだ。独裁政権が崩壊し、ようやくサラマンカに帰った彼は、市民から熱烈な歓迎を受けたという。

長いウナムーノの人生も、そろそろ佳境に入る。ここまで、まとめ過ぎた。「1864年バスク地方出身→学生→大学教授→総長→追放→亡命生活(カナリア諸島とフランス)→帰国」。「わけ分からん」というくらい駆け足した。で、1931年、 故・いかりや長介が生まれた年に、スペイン第二共和政が成立した。

「スペイン第二共和政」は、1939年にフランシスコ・フランコが独裁体制を固めるまで続いたスペインの共和政体。王族は国外へと追放された。そんな折、ウナムーノは国会議員になる。その3年後、サラマンカ大学終身総長になる。不死鳥のごとくの復活。けれども1936年に「スペイン内戦」。彼は反戦を説いた。で、再び大学を追放された。不死鳥、再び散る。

知の巨人でもあった不死鳥は、散ったまま終わった。1936年12月31日、ウナムーノは失意のまま、自宅で72歳で息を引き取った。最後に見た天井は、どんな風に見えたのだろうか。72年間、文筆しまくり、大学総長にもなり、フランスでも暮らし、政治家にもなって。その果てにあったのが、自宅軟禁だった。

彼の思想はその後、哲学者・オルテガ(1883 - 1955)など、スペイン哲学に大きな影響を与えた。というウナムーノの生涯。その大きな影響を与えた思想については、今回ほとんど何も触れてもいないのだけれども、または今後も触れそうにないけれど、「スペインの現代哲学者について」考。スペインを代表する哲学者に、ウナムーノさんがいました。その発見と、記憶定着作業。

ウナムーノさん(1864-1936)の復習。「スペインを代表する哲学者」または「スペインを代表する文学者」で、詩人であり、劇作家でもあった。「98年の世代」で、実存主義的な思想家。「サラマンカ大学総長」になったり、『ドン・キホーテとサンチョの生涯』を執筆したり。国を追われ、帰国後に国会議員になったり。そして日本で「二・二六事件」が起きた年に、72歳で逝った。

実に濃い人生。まとめるのもシンドイほど濃い生涯だ。自分が書いた以上の文章すら、僕は読み返したくないほどだ。長文にならざるを得ない複雑な人生を経て、ただでさえ賢い部類の人の世界観が、一般人、あるいは凡人と同じはずがない。もう一度、彼の死の床から見た天井がどのように見えたのか、想像してみる。

◇読了おつかれさまでした