2012年11月5日月曜日
不可知論は不価値論なのか考
「ふかちろん」と読む「不可知論」。英語では「 agnosticism」。今回は、この「不可知論」について、簡単にまとめてみる。ちなみにあの著名な投資家、ウォーレン・バフェットさんも、不可知論者とのことのよう。不可知論者、世界最大の投資会社トップを含め、結構多くいるみたいです。
さて「不可知論」。この言葉は「1868年(あるいは69年)にトマス・ヘンリー・ハクスリーによって造語された」とはウィキペディア。ハクスリーは英国の生物学者で、「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名がある。チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護した。
「Yahoo!百科事典」では「不可知論」はこう解説されている。「不可知論の起源を古代ギリシアのソフィストや懐疑論者にまでさかのぼって考えることもできる」、「しかし神の本体は人間によっては知られないとする中世の神学思想から始まるとみるのが妥当であろう」。
続けて「つまり、人間は一種の知的直観であるグノーシスgnosisによって神の本体を直接知ることができるとするグノーシス派や本体論者の主張に対し、そうしたグノーシスを否定するのがアグノスティシズム、すなわち不可知論である」。
とても分かりづらい。この説明だと「グノーシス主義」を知っている必要がある。この思想は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つ。「物質」と「霊」の二元論に特徴がある。世界や事物の根本的な原理を「物質」と「霊」とする世界観だ。
そんなわけで「グノーシス主義」は「自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する」とされる。また同主義は、地中海世界を中心とするもの以外に、イランやメソポタミアに本拠を置くものもあるようだ。
代表的なグノーシス主義宗教はマニ教になる。サーサーン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教で、かつてスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された。が、現在ではほぼ消滅したとされる。
話しは脇道をさらに進む。「グノーシス主義」について。この世界観では、「物質からなる肉体を悪」とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。1つは禁欲主義となり、マニ教となった。一方では、「霊は肉体とは別存在=肉体汚してOK」の公式で、不道徳をほしいままにした。
この「グノーシスgnosisによって神の本体を直接知ることができるとするグノーシス派や本体論者の主張に対し、そうしたグノーシスを否定するのがアグノスティシズム、すなわち不可知論である」。まだ分かりづらい。そして、じゃあ「本体論者」って何?となる。
本体論、これは神の存在証明における論理の一つだ。あるいは「存在論」。「goo辞書」では、「あらゆる存在者が存在しているということは何を意味するかを問い究め、存在そのものの根拠またはその様態について根源的・普遍的に考察し、規定する学問」とある。いわゆる伝統的な哲学の基礎的思考作業だ。
そんなわけで「Yahoo!百科事典」から解いていくと、結局「不可知論」が何だか分からなくなってきそう。ウィキペディアは、「神学に関する命題の真偽、また客観的本質的な実存は本質的に認識することが不可能である、とする宗教的、あるいは哲学的な立場」とまとめている。
神学に関する命題とは、形而上の存在、死後の世界、神の存在、神のお告げなどのこと。そして「神はいるともいないとも言えないのだ」とする“公平な中立的不可知論”と、“無神論者であると言明するのがはばかられる場合に用いられる消極的無神論”があるとする。
積極的な無神論者には、『利己的な遺伝子』で知られる進化生物学者のリチャード・ドーキンスがいる。僕は読んでいないのだけれど、彼は著書『神は妄想である』には、英国の知識人集団では97%が無神論か不可知論に属すると述べているという。
不可知論とは何か。「goo辞書」では、「経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説」とある。「また、後者の存在そのものも不確実とする説」とある。まだ分かりづらいかも知れない。
そこで「世界大百科事典 第2版」。これは分かりやすい。遠回りせず最初からそう言えばいいではないか、となる。「一般に,事物の究極の実在,絶対者,無限者,神は知られえぬと説く立場を指す」。僕らは神について知りえない存在と認めること、になる。
残念ながら「不可知論」を軽く研究したところで何も生まれない。けれども割りと多くの人々が、無意識に「不可知論者」なのかも知れないと僕は思っている。つまり割りと多くの人々が、勝手に「不可知論者」に分類されているのかも知れないと思っている。
ただ、なぜ「不可知論」なのか、「不可知論」の優位性はどこにあるのか。その辺について僕らは考えていく必要がある。ただ何となく「不可知論」では弱い。なぜ僕らに絶対者を知覚できいないのか、そういうシステムはどうしてあり得るのか。知覚してないからそう思うだけなのか。
真実を神、絶対的な何かとするならば、この「不可知論」の奥深くに内在する真実に届くことができるのだろうか。不可知論的には、きっと無理になる。僕たちは事物の究極の実在は知られ得ぬ存在ということであるのが正しければ。そうであれば哲学する意味はどうなるんだろう。
◇おしまい
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