2012年11月16日金曜日

思想と表現の狭間について


ずっと長い間「週刊哲学タイムズ」の更新を怠った。「おいおい、全然『週刊』じゃないじゃん!」といった突っ込みもある。まあそもそも当初から「週刊」ではなかったのだけれども。で、久しぶりにやや“何かを書き留める”といった時間ができたので、更新してみんとするなり。

で、何についてかというと、思想と表現の狭間についてです。この更新していなかった期間、僕は何も考え事をしていなかったかというと、そうではない。その考え事の対象や内容、質はともかくとして、僕なりに何かを悩んだし、何かについてやや深めに考察もした。先日は恩師の他界もあった。

ただ、この間の僕の考え事は何かに記録されているかと聞かれれば、「ノー」だ。だから僕が何かを考えていたとして、その証拠はない。仮にアインシュタインの相対性理論よりも画期的な考察や理論を組み立てていたとしてもだ。あるいは一つの教義を生み出していたとしても。

考える。けれど記録にない。考察の証拠はない。証拠がなければある考えについて誰かが何か思想的影響を受けることもない。もしかしたら「何も考えていない風がかっこいい」などとある芸能人の影響を受けるファンみたいなのはあるかもだけど。

僕がここでちょっと触れておきたいのは、記録に残されていない人々の考察についてだ。以前僕は「思想家とは何か」について“思想”した。多くの思想家、哲学者の名前を挙げてみたけれど、他にもまだまだ思想家と呼ばれる人々はいたし、今もいる。とてもたくさん。

ローマ帝国の政治家でストア哲学者のセネカ(BC1- 65)、日本では絶大な尊敬を集める弘法大師または空海(774 - 835)、インドの宗教家でヨガの行者としても知られたラーマクリシュナ(1836 - 1886)……。

とにかく、多くの思想家たちが、「思想家」たらしめているのは、その言動や発表した思想に基づいての評価と言える。つまり表現者でなければ「思想家」とは見なされないかも知れない、と僕は思うのだ。と、僕は何かを思っていることをブログで表現する。

では表現しなければ、思想家足りえないのか。そうではない。そうではないけれど、近所のスーパーのレジのおばさんや、工事現場の警備員たち、あるいはぶすっと国会議事堂で座る政治家のおじさんたち。誰でもよいのだけれど、何かを表現しなければ、思想家とはみなされない。

「別に思想家とみなされなくてもいーんですけど」という人はごまんといるだろうけれど。ただ、「一般人」と「哲学者」あるいは「思想家」との間にあるものを、ちょっとまとめてみたいと思う。まずは僕の頭の中で。そしてそれが何かで表現されるかどうかは不明だけれど。

思想は表現とつながってこそのものではないのだろうか。そんなことをふと思った次第、再確認した次第なのであります。何をいまさら気付いてんだ、といった意見はごもっとも。意見あっての考えや指向の見える化なのであります。

◇おしまい