なぜ今、ここで「マサイ族」に関心を持つのかは、さて置く。ただ、ふと僕らは、あの「マサイ族」から学ぶべきことがあるのではないか、と思ったのだ。あくまでも“ふと”だけれど。
たとえ「マサイ族」が、現地ではしたたかに、観光客向けに衣装を着て、嫌々ジャンプし続けていたとしても。あるいは割りとスマホを駆使していたとしてもだ。僕らは時々、ケニアのマサイ族について思い起こす瞬間が、年に一回はあっていい。
僕にとってのその第一回目が、今日になる。晴れた東京の午後3時過ぎ、優しい風を受けながら僕は、遥か遠くの地、ケニアの戦士について思いを馳せる。そして温くなったアイスコーヒーを喉に通す。
東アフリカのケニア。人口約4000万人で、「キユク族」など部族は多数あり、「マサイ族」は“少数民族”になる。ただ、以前は民族間の境界はなかった。つまり同族だったのが、ケニアを植民地としていた英国人に便宜的に区分され、「マサイ族」が造られた。
ちなみにケニアが英国の保護領となったのは1902年。その前からはドイツからも侵入を受けていた。その前にはアラブ人が侵入。その前の15世紀末は、ヴァスコ・ダ・ガマの来航をきっかけに、ポルトガル人にも侵入されてきた。
15世紀初頭には、中国・明の鄭和の艦隊の一部が、ケニアに到達している。などを考え、さらに「スワヒリ文明」などを考えると、ケニアは実に昔から、グローバル化の波にさらされていたと言える。そして“グローバル化”促進を象徴するアメリカの、現大統領のオバマさんは、このケニアの血を引いている。つまり今度はケニアが出発地点となった。
以上のような分かったようで分かりにくい背景を持つケニアに、「マサイ族」はいる。ケニア南部から、タンザニア北部一帯の先住民族で、「マサイ」とは「マー語を話す人」の意味があるという。推定人口20ー30万人。
遊牧民だったマサイ族は、「非常に勇敢でプライドが高く、草原の貴族と呼ばれる」と、wikipedia先生は教えてくれる。そんな彼らが信仰するのは、アフリカ大陸最高峰・キリマンジャロ山頂上に座する「エン=カイ」という神という。
伝統的住居は、牛糞と泥をこねて作った掘っ立て小屋。集落「ボマ」は、この住居を円状に配置し、外側を木の柵で囲うのスタイルが伝統的。日暮れ時には、放牧する牛などの家畜を、猛獣などから守るために集落内に連れ戻す。
「牛」は通貨ともなり、牛を持たない男は、一生結婚はできない。逆に牛持ちはモテる。一夫多妻も可能だ。また男には「戦いのみが男の仕事」という伝統的価値観がある。だから武器以外の道具を持ち運ぶことすら恥とする。
だからマサイの男は、本来は猛獣退治や牛の放牧以外の労働はしない。他の仕事は女の仕事だ。けれど男は、守るべきときに守るべきものを命を懸けて戦った。時に実際、命を落とした。
伝統的な主食は牛乳と牛の生血。政治的には村ごとにいる長老が物事を決定する原始的な長老制。マサイ族の男は、生涯に一度は戦士階級「モラン」になる。伝統的な色は赤。男には、大人になる通過儀式として割礼がある。女も、性器に切り痕を入れる。「マサイ族」はそういう部族だった。
しかし列強による植民政策のあおりを受け、マサイ族の土地は、強制的に奪われてきた歴史がある。そして現在は、遊牧エリアとしていた多くは「動物保護区」や「国立公園」などに指定。以前のように遊牧生活は“違法行為”となってしまった。
さらには現在、ケニア・タンザニアの両政府により「定住化政策」が進行中。それゆえかつての伝統的生活スタイルは、着実に時とともに破壊されてきた。そんなわけで、「戦士」たちは農耕や観光ガイドなどをしなければ、生きて行けなくなっているのが現状だ。
「マサイ族」の観光ビジネス傘下化は、こうした事情がある。だから「観光客が来たら急いで服を着替え、槍を持つマサイ族」は、決して笑えない悲劇、哀しい物語なのだ。よく日本のテレビでは茶化しているけれど。
僕らはいろんな意味を受け取ることができる、マサイ族から、いろんな意味を読み取ったりする。歴史から、文化から。受け取り方はそれぞれあっていい。植民地政策や経済的な問題とかも含めて。けれど遠く離れたマサイ族も、僕と同じ現在を生きるホモ・サピエンス。知恵と勇気を武器にする。
果たして僕は、男として世界に通用するのだろうか。そんなことも考える。果たして僕は、人類規模の視点で世の中を考察できているのだろうか。そんなことも考える。僕は「戦士」として生きているだろうか、「戦士」として生きていきたい、そんなことも考える。
なぜ今、ここで「マサイ族」に関心を持つのかは、さて置く。ただ、ふと僕らは、あの「マサイ族」から学ぶべきことがあるのではないか、と思ったのだ。あくまでも“ふと”だけれど。
◇おしまい