2012年6月8日金曜日

知的「美学」研究(1)

「男の美学」、「女の美学」。あるいは「遊びの美学」、「滅びの美学」……。僕らは「美学」という単語をよく使う。使いはするが、一体僕らは「美学」についてどれほど知っているのだろうか。そもそも「美」とは何だろう。ふと疑問に思う。

「僕らは美について、美学について、実はあまりよく理解、把握していないままに、その言葉を使っているのではないか」。その認識から、「美」と「美学」についての考察をスタートさせてみる。そもそも「美」とは何なのか。そんな「そもそも論」は、僕が考察、哲学する上での美学でもある。

おそらく「美」を捉えていく営みは、とんでもない脳的重労働になるかも知れない。そんな漠然とした不安がある。無事最後までタイピングし続けられるのか。ある程度「情報」としてまとめられるのか。僕が美について語ることは美しくないのではないか。

とてつもない「パンドラの箱」を開けることになるけれど、そんなことを言っても何も始まらないので、「私が思っている『美』とはこれです」というものを、いくつか手抜きして、適当にネット情報から抽出してみたい。正しいかどうかは別として。いや、「美的感覚」こそ人それぞれ、「これがそれです」と言えないものの代表なのかも知れないけれど。

「全ての美は我にあり」。「美とは個人の記憶であり、個人の記憶により生じている現象」。「美とはエネルギー」。「美は伝統や習慣、教育などの文化的背景や流行の影響を受ける」。「自分と子孫の繁栄に繋がるものは全て美しく見える」。

いずれも僕と同様、職業的「哲学者」でない方たちの意見。他にも「美とは、すなわち感情」。「美とは人間賛美」。「幸福感に溢れる気分にしてくれるもの」。「美とは、神の愛」などの投稿もある。「教えて!goo」の「美」をテーマにしたQ&Aには。

そして僕はそれら全てが正しいとも思う。間違っているとも思う。その判断基準には、多分僕の美的感覚、美的意識が介在している。「それを『美』としていいかどうかの美的感覚」的なものが。

「美はそこにあるのではなく、そこから受け取る感受性」。とは、今、脳から吐きでた僕のことば。「美は本人の知的・感覚レベル次第」。「美を美としない美もある」。「価値のない美はない」。つらつら言葉が生まれてきては、吐き出せる。

うーん。ここまできて、より一層悟る。「美学」考は、かなりの長編になるかもなーと。ちょっとわくわくする。そして僕の長文を避けたいという美的センスから、今日はこの辺でタイピングをストップしてみる。

◇つづく