2012年6月8日金曜日

知的「美学」研究(2)


『美学への招待』(中公新書)という新書がある。 東京大学名誉教授の美学者、佐々木 健一が、2004年に出した美学入門だ。Amazonでは、「藝術が、いま突きつけられている課題を…(中略)…美と感性について思索することの快楽へといざなう」とある。やや取っつきにくい文体の「内容紹介」だけれど、まさに僕が探りたい内容だ。

ここで言う「藝術が、いま突きつけられている課題」とは何だろう。ここでは、「二〇世紀後半以降、あらゆる文化や文明が激しく急速に変化」し、芸術の世界も例外なく変化したと指摘。例えば、複製がオリジナル以上の影響力を持ったりしていることが挙げられるという。コロッケと美川憲一のようなことだろうか。

加えて「作品享受も美術館で正対して行うことから逸脱することが当たり前になってきている」という。なるほど。ただ、「美術作品は美術館で鑑賞すること」とは、誰が決めたわけでもない。とも思う。一般市民に公開された最古の美術館「カピトリーノ美術館」は1471年開館だが、それ以前にも“美術鑑賞”はあっただろう。

なんてことを思いながら、『美学への招待』のカスタマーレビューも読んでみると、「美学って何ですか、みたいなところから、デュシャンの『泉』(トイレをひっくり返したもの)やウォーホルの『デルモンテ・ボックス』(段ボール箱をそっくり再現したもの)がなぜ芸術といえるのか、など、一般人の持つ疑問にも答えてくれます」。

っていうことは、僕が「美学」について考察すべきことは、全て『美学への招待』の中にありそうだ。けれども問題は、僕はまだ同書を読んでいないことにある。読んでいないなりに、「美学」のまとめについて前進できないものなのか。いや、逆に現在読んでいないゆえの、“美学”未開拓者なりの美の考察ができるのではないだろうか。

有識者の考えにまみれる前の僕の考察その1。例えばレビューにあった「デュシャンの『泉』(トイレをひっくり返したもの)」が「なぜ芸術といえるのか」。推敲しないで、瞬発的に答えるとしたら、僕の場合はこうだ。「“美”を享受するには、美を享受しようという努力が必要で、その努力如何で、森羅万象を美と解釈・把握できるから」。

これは宗教とも似ている。ある人はあらゆることに聖霊を感じ、喜びに満ちる。ある人は、奇跡的なことが起きても、そこから神や聖霊は感じない。解釈の有無・差異。要はモノやコトに対してどう捉えようとしているかの姿勢、あるいはコトやモノへの知識によってくる。人生経験にもよってくる。そこに神を見るか、見ないのか。

そこに美を見るのか、見ないのか。これは宗教的感性同様、その人の認識力、把握力、あるいは勘違いや誤解などが大きく左右する、と思っている。同時に、「これに神の存在を見なさい」と言われても唖然とするだけのように、美的感覚もまた、強要できないものとも思われる。できても限定的になるだろう。つまりは本人次第。

「これは美だ」と大勢が言えば、そのモノに内在する「美」、外部に添付する「美」が一般化されていく。それには文化や歴史が関係するだろう。あるいは逆に、一般化された合意された美は、文化や歴史を紡いでいく。その時代にいなければ見えてこない美もきっとある。その国にいなければ理解できない深みはきっとある。

ヒトに抱く美も同じだ。大正時代に美人と言われた「大正三美人」。現代に生きる僕の眼でも、情熱的歌人として知られた柳原白蓮は美人と思う。しかしながら、その他の一人は、僕はどうしても美人に見えてこない。申し訳ないけれど。逆に現在の美人を大正時代に連れていっても、「ありゃ化けもんだ」と評されてしまうこともありえる。

なんてこと、をツラツラと綴る。「デュシャンの『泉』(トイレをひっくり返したもの)」が「なぜ芸術といえるのか」。ちなみにこのデュシャンは、マルセル・デュシャン(1887 - 1968年)。フランス出身で、後に米国で活躍した美術家だ。ウィキペディアでは「20世紀美術に決定的な影響を残した」と紹介されている。

「デュシャンはニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ、20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人と言われる」。「ダダ」とは、ダダイスム、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のこと。既成の秩序や常識に対する、否定や攻撃、破壊といった思想が大きな特徴だ。背景には第一次世界大戦に対する抵抗などがある。

デュシャンは、大量生産された既製品を用いたオブジェ作品を多く創作した。この一連のシリーズを、彼は「レディメイド」と命名。英語で既製品のことだ。彼は芸術作品に既製品をそのまま用いることで、「芸術作品は手仕事によるもの」という固定観念を打ち破った。また「真作は一点限り」という概念をも否定した。との評がある。

知的「美学」研究の第2回。『美学への招待』から始まり、いつの間にか「デュシャンの『泉』」の話になりました。「件の『泉』を含むレディ・メイド作品の多くはオリジナルは紛失している」らしいです。現在目にすることのできるのは写真か複製のみ。現存しないけれども、美学を語る上では外せない作品、美を、デュシャンは生み出しましたとさ。



◇つづく