2013年4月17日水曜日

時間とは何か考


時間とは何か。これは「時間」について疑問を持ってしまった多くの人々を苦しめてきた命題だ。これまで多くの哲学者や芸術家、文豪、自然科学者や心理学者などが研究し、それぞれの異なった解釈を提示・表現してきた。そして実際、「時間」の捉え方は、自然的時間、宗教的時間、物理的時間など、それぞれ異なっている。

高校時代の現代文の勉強で、「時間」をテーマにした文章をけっこう読んできた。と同時に高校時代、時間に対するおおよその概念が、僕の中でまとまった。「時間」とは何か。例えばこんな時間論。置き時計や腕時計が誕生する以前の科学的未発達文明においては、「自然的時間」、「宗教的時間」が支配的だった。云々。

太陽の動きに連動する朝や夕といった「自然的時間」。年や月、週、日、時間、分、秒といった人工的、人為的な時間とは異なって流れているとする時間だ。一方、直線的に捉えがちな時間を円環的、輪廻的に捉えたり、神の視座から捉えたりする時間が「宗教的時間」。そしてたとえば教会は塔の時計を通じて、時間の流れを管理・独占したりした。

けれども18世紀から19世紀にかけて産業革命が起こり、概念も変化した。産業革命は人々の時間認識革命でもあった。以降、鉄道ダイヤの普及により、一つの基準として人工的時間、物理的時刻が普及。「近年は高速旅客機や録画保存機器などの発明により、人間の体内時計が揺らいでいる」と言われるまでになった。

たとえば移動手段によって移動時間が異なってくる現象が生まれた。自動車や飛行機の登場で、一昔は遠く感じた隣町や隣国が、「すぐそこ」になった。また、飛行機は日付を越えて時差を生むようになり、宇宙船に乗れば24時間のうち「1日」が何度も訪れるようになった。速度や空間と時間の関係性がモヤモヤ見えてくる。時代や文明との関連性も。

あるいは、録画保存機器の発明による影響は、こんな風に言われる。「ビデオカメラにより過去の記録や記憶を新鮮に振り返ることができる。つまり過去の記憶は、自然と色褪せることが無くなりつつある」。僕たちが普段観ている録画収録のテレビ番組もそうだ。ニュース番組であれ、ライブ映像以外は過去の事象を「今」捉えている。

時間とは何か。時間の構造についての記述を幾つか拾ってみる。まずは「直線的な時間」。ニュートン力学における時間は、無限の過去から無限の未来へ続く直線。次に「線分的な時間」。この捉え方は、時間は“無限の過去”から“無限の未来”へ続くものでなく、始まりと終わりのある有限なもの、有限な線分だとする考えだ。

次に「円環的時間観」。時間は円環状であり、同じ歴史が繰り返されるという捉え方。ユダヤ教、古ゲルマンの宗教をはじめ、現在の新興宗教まで広く見られる時間観。この円環的な時間は、ニーチェの永劫回帰思想にも見られ、「回帰の環(Ring)」と表現されている。彼は「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立った。

脱線するが、ニーチェの「永劫回帰」について。この永劫回帰は「一回性の連続」という概念が基礎となる。転生思想のように「前世→現世→来世」と転生するのではなく、カセットテープの再生と同様に、同じ再生時間に同じ音が再生される如く、人生は再び繰り返すというもの。超人でない凡人には理解不能。

「虚数時間」というのもある。宇宙物理学者のスティーヴン・ホーキングらは、1983年に発表した「無境界仮説」で、複素数にまで拡張した時間を計算に使用した。ここから、「宇宙の始まり」、「ビッグバン以前の時間」が虚数であれば、時間的特異点が解消されると主張した。これも文系頭脳の凡人には理解不能。

膨張を続ける宇宙。時間を逆回しにすると、どんどん小さくなり最後は1点「特異点」に集中する。これが、ホーキングらが発表した「特異点定理」。宇宙の始まりを考える時、一般的な「実数時間」ではなく「虚数(二乗すると−1になる)時間」を導入すると、「特異点は消失する」、つまり、つじつまが合う、らしい。

古典物理学、量子論以前の物理学における時間は「連続体」であり、「実数で表せる」とした。時間はいくらでも細かく分割可能ということ。けれども物質の最小単位として原子や素粒子があるように、時間にも最小単位があるのではないかとも考えられる。映画フィルムのように一コマ以下の時間は存在しないという考えになる。

「分岐時間」という、時間が木のように枝分かれするという時間観もある。分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているというSF的な世界観。これらの同時進行する世界同士を、互いに「並行宇宙」または「並行世界(パラレルワールド)」であると言う。量子力学の多世界解釈では、この「分岐時間」がツールという。

などなどある。つまりは各々の時間観とは各種世界観なのだ。そこで「時間」にまつわる名言を集めてみた。これもまた各種の時間観。「その日その日が一年中の最善の日である」(米国の哲学者、ラルフ・ワルド・エマーソン)。「過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ」(帝政ロシアの小説家、レフ・トルストイ)。

「時間こそ最も賢明な相談相手である」(古代アテナイの政治家、ペリクレス)。「時はその使い方によって金にも鉛にもなる」(フランスの小説家、アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ)。「一番多忙な人間が一番多くの時間をもつ」(スイスの心理学者、アレクサンドル・ビネ)。先人たちは実に良いことをおっしゃる。

相対性理論とか、光とか量子とか、空間の歪みだとかエントロピーだとか。そういった数式や定理での時間の捉え方ももちろん大切だけれど、「名言」で捉える時間もまた有意義だ。「毎日自分に言い聞かせなさい。 今日が人生最後の日だと。 あるとは期待していなかった時間が驚きとして訪れるでしょう」。古代ローマの詩人にも教えられます。

そして最後に思うことは、「タイムトラベル」についての考察、「タイムマシン」の発明に向けての研究、といったテーマの方が、より実践的かつモチベーション高めな「時間考」ができるやも知れない、ということ。これはあらゆる哲学的テーマでも言えることなのだけれど、思考・世界の把握法はツールであるべきだ。「哲学のための哲学」などはもっての他!と、本ブログの副題を見つめる。

◇おしまい