2013年4月2日火曜日

「幸福な青年」考


ロシア帝国時代の小説家・ゴーゴリ(1809 - 1852)は、とても心に響く言葉を残している。「青年は、未来があるというだけで幸福である」。そう、青年は、輝く未来が待ち受けている、それだけで幸せ者だということ。僕(32歳)自身がもはや「青年」ではなく、「未来」が輝く保証はどこにもないとしても、実に救われる名言だと思う。

そして改めて僕は自身に問う。「僕は青年なのか」。そしてウィキペディアにも問う。するとこんな文言に出合う。青年とは、「狭義には、高校生・大学生といった、それらの学齢を含む15歳から22歳ごろまでを指す」。またそこでは、厚生労働省の“一部資料”では、15〜25歳ごろまでと定義されていることも教えてくれている。

なるほど、となると、僕はすでに青年の次のステージに否応なく突入しちゃっているようなのだ。つまりは、「少年」「青年」を過ぎ、「壮年」時代。先の“一部資料”の「健康日本21」では、青年期は24歳まで。壮年期は44歳まで。この時代を終えると、「中年」「熟年」、さらには「初老」「老年」の区分に“進級”していく。

もちろん、「青年」「若者」については、時代や社会、環境によって違ってくる。かつては、現在「子ども」扱いされる年齢で、世間は成人、大人とみなしていたし、みなされていた。例えば日本では、江戸時代以前の武家社会において、男子は元服し、前髪を剃り落とせば「一人前の大人」とされた。数え年で12〜16歳の時期になる。

ちなみに「青年」という語句は、1887~88年にかけて、メディアを通して広がった言葉ともいう。『「青年」の誕生―明治日本における政治的実践の転換』という本では、明治20年代初頭に、新世代を指す言葉として「青年」が誕生し、その現象の背景や政治的な転換を考察している、と“書評”にはある。

「青年は、未来があるというだけで幸福である」。この名言に触れ、「青年」について、いつものごとく浅いレベルで整理中。で、「青年期」についても触れてみる。「発達心理学で15、16歳から34歳または39歳頃までの性的成熟伴う急激な身体的変化が現れ、心理的には内省的傾向、自我意識の高まりがみられる時期」ともされている。

加えて「不安・いらだち・反抗など精神の動揺が著しい」、さらには「思春期と呼ばれる前半では身体的・性的に成熟し、後半では、自我意識・社会的意識が発達する」とも言われている、ウィキペディアでは。ルソーはこれを「第二の誕生」と呼び、ゲーテは「疾風怒濤の時代」、レヴィンは「境界人」(マージナル=マン)と呼んだ。

この範疇で言えば、「壮年期」なはずの僕は「青年期」に当たる。そして「不安・いらだち・反抗など精神の動揺が著しい」。けれど、32歳、それではまずい。現代社会においても。孔子の言葉を思い出す。子の曰く、「吾れ十有五にして学に志す」。「三十にして立つ」。「四十にして惑わず」。「五十にして天命を知る」……。

僕はもう独立していなければならず、あれこれと惑うことない40歳に向けて着実に歩んでいるべき中にある。けれどもそもそも「学に志す」のは、けっこう最近になってからだ。もうスタートからして遅れている。孔子は言う。「六十にして耳順がう」、「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」。かの時代の理想に追い付けるのか、僕。

ふと弱気になる最近。何度でも心の中で繰り返す。「青年は、未来があるというだけで幸福である」。この言葉、受け身ではいけない。自身を幸福にさせる未来、将来を輝くものにしていく責任も、青年にはあるとも思う。と同時に、自らの幸福にも気付くべきなのだとも思う。仮に僕が壮年であれ、中年であれ。誰もが未来を持っている。

◇おしまい