2012年9月20日木曜日

「知の巨人」研究・2


『梅棹忠夫---地球時代の知の巨人 』(文藝別冊)というムック本がある。アマゾンでは「民族学・文明学に新たな視野を拓いた知の巨人。著作集未収録原稿ほか、幻の『世界の歴史 人類の未来』目次を紹介」と紹介されている。「知的生産の現場・梅棹研究室をイラストで再現。梅棹忠夫論、対談も多数」ともある。

「この商品を買った人はこんな商品も買っています」では、もちろん梅棹忠夫の著書が並び、『知的生産の技術』(岩波新書)、『情報の文明学』(中公文庫)、『文明の生態史観』 (中公文庫)など。僕はいずれも読んだことはないけれど、『日本文明77の鍵』 (文春新書)や『梅棹忠夫の「人類の未来」 暗黒のかなたの光明』含め読んでみたいものばかり。

「知の巨人」研究・第二回目は、生態学者、民族学者の梅棹忠夫(1920- 2010)について。梅棹忠夫について、と言っても、今記した通り、僕は彼の著書は読んでいない。であるからして、そのぉ、あのぉ、すでに彼についてまとめた記事を僕がまとめていく作業。知の巨人をまとめてくれた巨人の肩に、僕は乗っかるわけなのであります。

「うめさお ただお」。その肩書きには、「国立民族学博物館名誉教授」、「総合研究大学院大学名誉教授」、「京都大学名誉教授」や「理学博士」などがありました。例の参考資料によれば、「日本における文化人類学のパイオニア」であり、「梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開」しておりました。

よって多方面に多くの影響を与えた「知の巨人」。京都帝国大学時代は、日本の霊長類研究の創始者として知られる今西錦司に学ぶ。「生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す」。代表作『文明の生態史観』。

ちなみに「生態学」とは、「生物の生活や行動、環境との相互作用などについて研究する学問。エコロジー(ecology)」と、「はてなキーワード 」では解説。古代ギリシャのアリストテレスによる動物に関する研究や、植物学の祖とも呼ばれるテオプラストスの植物、植物群落についての研究も、生態学の歴史の一端とされる。

梅棹忠夫は、「数理生態学の先駆者」でもある。オタマジャクシの群れ形成の数理を研究した。さらに、宗教のウィルス説という、とてもユニークな論を唱えた。ウィルスによる病が宗教だ、というわけでなく、思想や概念の伝播、精神形成について、ウィルスの広がりと重ねた。宗教ウイルス説。

宗教を伝染病にたとえた斬新な「宗教ウイルス説」は、「文明要素(技術・思想・制度)が選択により遷移していくと言う遷移理論を柱にする文明の生態史観の一例であり、基礎のひとつである」と、例の参考資料は記す。さすが「文明学者」と呼ばれるだけある。

経歴は「検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分」とされる箇所をまとめます。大日本帝国が国際連盟へ正式加入した1920年、梅棹忠夫は京都市に長男として誕生。1936年、京都一中(現・京都府立洛北高等学校)から4年修了(飛び級)で第三高等学校に入学した。

「京都一中」は、1870年に創立された、日本最古の旧制中学校。戦前から戦後にかけて京都大学へ多数の進学者を送り出していた。「第三高等学校」は、京都にあった旧制高校で、略称は「三高」、現在の京都大学の前身の一つになる。名門校からしかも飛び級で、名門校へ進んだ。

頭は抜群に良い。けれど「三高時代から山岳部の活動に熱中して学業を放棄」した。それゆえ「2年連続で留年して退学処分を受け」た。僕はこういう人が好きだ。結局「後輩や同級生からの嘆願運動で復学を認められる」。で、京都帝国大学理学部動物学科に進んだ。

在学中には今西錦司を団長とする中国北部「大興安嶺探検隊」などに参加。「モンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、生物地理学的な歴史観を示した『文明の生態史観』は、日本文明の世界史的位置づけにユニークな視点を持ち込み、大きな反響を呼び論争を巻き起こした」。

フィールドワークや京大人文研での経験から1969年に著した『知的生産の技術』はベストセラー。同書で紹介された情報カードは、「京大式カード」という名で商品化された。というより、実は梅棹がデザインした特注が、普及したものが「京大式カード」となったようだ。

1963年という時期に『情報産業論』を発表、情報化社会のグランドフレームを提示した。「情報産業」という言葉は梅棹が名づけた。「その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』にまとめられている」。また国立民族学博物館の設立に尽力し、1974年初代館長に就任した。

1986年に原因不明の失明、以降の著述は口述筆記で行われた。これは闘病記『夜はまだあけぬか』(講談社文庫)に詳しいようだ。僕が尊敬する“先生”、司馬遼太郎とは、モンゴル研究のつながりで長年の友人であった。編著『日本の未来へ 司馬遼太郎との対話』もある。

「日本語のローマ字化推進論」を唱えた。「漢字廃止論」を唱えた。「エスペラント推進論」を唱えた。ベホイミを唱えた。とにかく「世界エスペラント協会」の名誉委員になった。宗教観については、自身は無宗教であるとしている。ザオリクは唱えなかった。2010年7月3日、大阪府吹田市の自宅で老衰により、90歳没。

偉大なる知の巨人・梅棹忠夫。読書の秋の10月、僕はなんかしらの著書を読もうと思う。優秀な頭脳を持つ探検家、斬新な視点を提供する哲学者でもあっただろう。途中失明しても、「知」を発信し続けた。彼が「知の巨人」と認定されているのも分かる気がしました。

◇おしまい