「にしあまね」と読む西周(1829ー1897)。「哲学」という日本語を作ったことで知られている。「philosophy」を「愛知」とか「愛智」とかでなく、「哲学」と訳したセンス、僕はけっこう好きだ。「哲」には、「道理に明るい」とか「知恵」とかの意味がある。
西が翻訳・造語した言葉は他にもある。「科学」や「理性」、「芸術」や「技術」も、西が生み出した。これらの言葉は、その後日本人に定着したわけだけど、逆に言えば彼がこれらの言葉を考案する以前は、「科学」とか「芸術」といった概念は、日本人は持っていなかったことになる。
現代の日本人からしてみれば、例えば奈良時代や江戸時代に、「これって科学的な発想だったよね」とか、「この人はホント、芸術に燃えてたんだね」とか、言うことができる。けれど当時の日本人はそういう言葉、世界観では捉えていなかった。言葉が違う、ちょっと違う世界を持つニッポン。
「言葉・ことば」については、僕は割と研究してきた方で、記号論的に、言語学的に、脳科学的に、いろいろ考察・整理していきたいと思う。思うのだけれど、今回は西周について。幕末の家臣であり、明治期には貴族院議員となった啓蒙思想家について。
西は現在の島根県生まれ。当時は石見国。医師の家系で、親戚に“明治期の医師&文豪”最高峰の森鴎外がいる。知的環境にあったせいか、勉強好きだったようだ。漢学や蘭学を学び、西洋知識を貪欲に吸収し、33歳くらいのときに3年ほどオランダ留学もした。
オランダでは、法学や哲学、経済学をガクモンした。で、1865年に帰国。明治維新の3年前。帰国した西は、徳川慶喜の側近となった。江戸幕府が終わり、明治政府ができてからは文部省などで官僚となる。特に軍関連の整備を頑張った。
明治期の活躍として知られているのが「明六社」の結成だ。日本最初の近代的啓蒙学術団体。初代会長は、初代文部大臣で“明治の六大教育家”、森有礼。「もりありのり」と読みます。西はこの「明六社」を、福澤諭吉や加藤弘之、中村正直、箕作麟祥といったメンバーたちと創設した。
明六社の会員は実に錚々たる面子が揃う。ご存知、福澤諭吉は慶応義塾の創設者。加藤弘之は事実上、東京大学の初代学長。中村正直は“六大教育家”のひとりで、かつて「三大義塾」と称された私塾・同人社創設者。箕作麟祥は「みつくりりんしょう」と読み、法政大学初代校長。などなど。
1873年に設立した「明六社」で何をしたかというと、その翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。西は本格的に「啓蒙家」として、西洋哲学の翻訳や紹介をした。つまり明治期の日本人における哲学の基礎づくりに尽力した。
西はその後、明六社に代わるアカデミー団体、東京学士会院(現在の日本学士院)で、第2代、第4代の会長となる。獨逸学協会学校(現在の独協大学)の初代校長もやった。貴族院議員もやった。けっこういろいろなことをやり尽くした感がある1897年、西は68歳でこの世を去り、現在は青山霊園に眠る。
僕が西について関心を持ってしまうのは、以上の経歴・功績だけでなく、彼が「確認が取れる日本人最初のフリーメーソン」とされていること。西周、フリーメーソン説。国際的秘密結社の日本支部メンバーが、日本の哲学の基礎を築いた。その隠された秘密結社のDNAが…という、ちょっとアレな話に急展開。道理で僕がフリーメーソンに関心があるわけだ。
◇おしまい