2012年5月31日木曜日

超「実存主義」講座(サルトル記・中)


日本では大阪帝国大学が設立され、米国では「星条旗」が国歌に採用され、ロシアではその後初代ロシア大統領になるエリツィンが生まれたころ。1931年。フランスのサルトルは、高等中学校の哲学科教師になった。けれどそのまま教師生涯を続けたわけではなかった。というのも、ベルリン留学をすることにしたからだ。

ベルリン留学は1933年からの1934年にかけて。サルトルは本場ドイツで「現象学」を学んだ。というのも、「精神現象学」を書いた哲学者ヘーゲル(1770-1831)も、ドイツの人。現象学的解釈で「存在論」を展開したハイデッガーもドイツの人だ。サルトルはベルリンで、フッサール(1859-1938)を師匠とした。このフッサールから、哲学者サルトルが生まれ、ハイデッガーが生まれ、メルロー・ポンティが生まれた。

ちなみにハイデッガーは、「実存主義」に大きな影響を与えていて、もしかしたらサルトルよりも哲学者・思想家としてキーパーソンかも知れない人物と言える。なのでいずれ、あまり質が良くない当ブログ「哲学タイムズ」でも、ハイデッガーは取り上げていきたいと思ったりしている。いつものように、“思うだけ”で終わるかもだけど。

フッサールは、あらゆるものを現象そのもので把握、記述するスタイルでの「世界把握」を開拓していった。つまり先入観よりも、目の前にある現象を感じている直観を重視した。そこに「週刊少年ジャンプ」があったとして、そこに漫画本がある、絶対的に存在するかは分からない。と考えた。そこに絶対的にあるかどうか、ということよりも、その物体や概念を直観したことの絶対性を認めることが大切だとしたのだ。多分。

仮にそういった認識が全てとするならば、現在多くの高齢者を悩ませる認知症や、薬物中毒者の幻覚などを考えると、「ちょっと待った」的な部分、より深遠な哲学的世界が広がりそうだけれど、ここでは「現象学」についてはあまり触れないでおこっかなぁ。サルトルさんのお話です。

そんな「現象学」の権威の学者を、サルトルは師匠とした。フッサールから大いに学び帰国したサルトルは、2005年に世界遺産に登録された街、ル・アーヴルで再び教師になった。今度は大学教師。ル・アーヴルはあのノルマンディーがある街だ。この街で教鞭をとりながら、1938年、サルトルは小説「嘔吐」を出版。一躍有名人となった。

小説「嘔吐」はサルトルの代表作。ル・アーヴルに似た街で、ある絶望した研究者が、吐き気を覚えている。その理由は、彼を取り巻く事物や境遇が、「自我を定義する能力や理性的・精神的な自由を侵している!」との確信してしまったため。そんな小説が、実存主義における聖典の1つとして人気を博した。

ちなみに1964年、サルトルはこの作品が評価され、「ノーベル文学賞」受賞が決定された。が、サルトルはそれを辞退している。なにせ彼にとっては、「ノーベル賞は資産家層によって作られた儀式に過ぎない」からだった。僕がサルトル好きなのは、こんなところにもある。

◇つづく



2012年5月29日火曜日

なぜ僕は哲学を学ぶのか?考。




僕は社会人になって、もう一回大学生をすることにした。慶応義塾大学の文学部。哲学を学ぼうと、昨年2011年に入学、今年で2年目になる。僕が慶応義塾からどれほど知識を得ているかはさて置き、再び「大学生」となることで「哲学を学ぶ」「哲学を究める」というモチベーション維持には、大きく役立っている。

「学生」のご身分でメリットは多々あるにせよ、「そんなモチベーションのためだけに学費を納めるのは勿体ない」という人はいるだろう。そもそも「学生」の身分にならなければモチベーションを保てない程度なら、「学習・研究意欲がない証拠。だったら最初から止めてしまえ!」と言う人もいるかも知れない。いてもいい。

まあそれを言うなら、ロクに講義を聴かずにだらだら4年間大学に通うより、4年間毎日図書館に通って本を読み漁っているほうが、よっぽど教養的という気がする。人脈づくりや経験値向上、コミュニケーション能力醸成などは図書館では難しいけれど。ただし、そう毎日図書館に通って「ガクモン」できる人は、よっぽどアレな人だろう。

僕の場合、あっちの方面ではちょっとアレだけれど、そっち方面ではアレには至れなかった。アレじゃない人種にとっては、「学生」の区分に身を置くのは、結構アリだ。自己暗示にもかけられる。「おい!お前は学生なのだから、もっと必死になってガクモンしなさい」と自分を追い込めもできる。

アイデンティティをあえて、自由に、好きな枠組みに置く。それはできることとできないことがあるが、僕が再び学生という身分になることは、できた。もちろん学費が払えるという条件や、審査合格という条件、文字を読めたり書けたりする能力があるという条件など複合的な条件がクリアできたからではある。

だからインドネシアの農科大学に入学することは、僕にはできない。ロシアの宇宙飛行士になることも、僕にはできない。インドのバラモンになることも、僕には不可能だ。年齢的、言語能力的、人種的、宿命的なもの、あらゆる「的なもの」に縛られつつ、柵に囲われつつ、けれどもその中で僕なりに「僕が好きな身分」を求め、時にそれを得る。

求める、得る。聖書では「求めなさい。そうすれば、与えられる」とある。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と続く。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。かつて中東で、イエスはそう説教した。

けれど、当然、求める。けれど得られない。そんなことはザラだ。1億円求めて宝くじを買う、当たらない。就活をする、けれど職が得られない。考える、けれど答えは得られない。イエスは「魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」とうまいことを言ったが、実際は蛇以下のものになることもしょっちゅうだ。

哲学は奥深い。僕の奥深い問いを、僕は「哲学」と呼んでいるのかも知れない。とにかく僕に限った話ではないけれど、「求める。そして得られるもの」。「求める。けれど得られないもの」。どっちもある。できればどっちも得られるなら得たい。得られなければ「得られなくて良かった」と思い込みたい。パラダイムシフトの欲求。

そんなわけで、僕は「哲学」を学ぶ。学び、神に問うことになる。“求める。けれど得られない。”ってことはどーなのよ?と。そこで「神学」になる。「哲学は神学の婢」ということわざ通りになる。ならないかも知れない。僕は最終的には、トマス・アクィナスのこの言葉と向き合うことになる。そんな予感はしている。

◇おしまい

2012年5月28日月曜日

疲れる、とは何か考。


なぜ疲れるのか。生きていれば、ずっと動いていれば当たり前とも思うが、ふと「僕たちはどうして疲れなければならないのだろう」とも思う。睡眠の話にも近い気もするけれど。

「疲労」についてはいろいろ言われている。“wikipedia”でだけど。“痛み”と“発熱”に並ぶ、生命維持装置に欠かせない「3大アラーム」だとか。脳が主体的な疲労のことを「中枢性疲労」、肉体的に由来する疲労のことを「末梢性疲労」というのだとか。

また「生理的疲労」と「病的疲労」に区別もでき、病的疲労には発熱や記憶障害も起こることもある。同じ疲労でも、男性は無口になり“活動停止状態”に陥りがちだが、女性の場合は逆に“動的”で、他人に八つ当たりしやすいなどとも言われているそうだ。

「疲労」についても様々なメカニズム、ルートがありそうだが、恐らくおおよそはこんな感じになると思う。「ストレス→神経・免疫・内分泌系の異常→ウイルス再活性化→サイトカイン産生異常→神経細胞機能異常→疲労感」。

ここに出てくる「サトカイン」とは、免疫システムの細胞から分泌されるタンパク質のこと。僕らを構成する細胞の、増殖や分化、死、治癒などに関係する重要な高分子化合物だ。ストレスを受けると、このサトカインの分泌がおかしくなる。結果、僕らはヘロヘロになる。あくまでも一つのルートだけれど。

そう考えると、一番始めの「ストレス」がなければいい、ということになる。では「ストレス」って何? となる。で、1935年に「ストレス」の言葉を生み出した、カナダ人生理学者・ハンスさんの定義を借りてみると、「体外から加えられた要求に対する身体の非特異的な反応」となる。

ハンスさんは、反応を引き起こす刺激を「ストレッサー」、刺激に対して反応し、歪みを起こした状態のことを「ストレス」と区別した。だから「ストレス=刺激=有害」というわけでは、この時点ではない。実際僕は、結構刺激を求めているし、それが快感だ。喜びにつながり、「ストレス解消」になっている。

ただ、刺激にも限度がある。物理的、精神的に。その限度、許容量は人それぞれと思う。孫悟空なら死なない刺激で、クリリンなら死んでしまうこともある。ということになると、僕らにはそれぞれ、それぞれに合った、適度な「刺激」が求められ、適応能力を超えれば「疲労」につながる、ということなんですね。とまとめにかかる。まとめられそうにないけれど。

あるいは認知の仕方も「疲労」「ストレス」と関係がありそうだ。ある人には快感と思えることは、別の人には苦痛でしかないこともよくある話しだし。であれば、「あらゆる苦痛も快楽に感じれる認知術」があれば、僕らはかなり幸福な日々を過ごせそう。まあそのために僕は個人的に“修業”をしているのだし。

ここで言う“修業”は、たとえば色んな価値観を吸収し、あらゆる物事の知識を仕入れること、あるいは……。とにかく「プラス思考」を目指すプロセスになる。

うんぬん。かんぬん。そして話は「癒し」、飲み会やマッサージ、お笑い鑑賞などといった“疲労回復”に飛ぶ。飛んで止める。長くなる。けれど「疲労」と「回復」は、哲学的命題としてイコールだ。きっと。

いずれにせよ、「疲労」を思考していることで、僕は疲労してきた。ふぅ。だったら最初からよせば良かったのにね! 結局何もまとめられずにいることも、また疲労感を増量させてくれています。と「疲労」を実感するためのプロセスでした。

◇おしまい

2012年5月25日金曜日

なぜ寝る、起きるのか?論。

「おっはよーございま〜す!」と、大平原の空に向かって叫びたい。そんな夢想をしてしまうほどの、すがすがしい朝。対照的に僕の脳内は、超寝不足でドロドロで……という状況説明、言い訳から、この記事は始まります。眠すぎで妙なハイテンション。とりあえず叫びたい、けど叫べない、そんな一日のスタートライン。

こんな夢想もする。もし僕が今放った「おっはよーございま〜す!」の声が“誰か”へ届いてしまっているならば、それはどういうことだろう。つまり“誰か”がこのブログを読んでしまっているならば、それはどういうことだろう。僕は“誰か”を知ることはなく、“誰か”は僕にアクセスしちゃってる関係。

その“誰か”は僕にとっては、まるで地球をのぞき込んでる神、あるいは宇宙人に似ている。つまり「人間と宇宙人」の関係は、「書き手と読み手」の関係に近似している、と妄想を膨らませる。ちょっと不思議な感じだ。いや、これはだいぶ奇妙な関係だ。ただ、これは本題ではない。寝不足ゆえ、本題は「なぜ寝る、起きるのか?論」。

さて、現在の時刻は午前8時前。空は青く、太陽は眩しく、空気が澄んでいます。そして多くの「年金第二号被保険者」、すなわち「被雇用者」の皆さまにとっては、「さて出勤だぜ!」のお時間となっています。良くも悪くも、僕もその“働き人”に混じり、都心への「通勤電車乗車タイム」となっています。

いま目にしているほとんど人たちは、昨晩に寝、今朝に起き、トイレで用を足し、服を着て、家を出てきた人々だろう。自動車通勤や電車通勤、徒歩通勤でもいい。とにかく太陽が一日の始まりを告げると、僕らはいそいそと仕事へ向かう。または学校へ向かう。あるいはジョギングしに、あるいはスターバックスでコーヒー飲みに、あるいは……何でもいい。

ただ、きっとニートの方々は、まだ寝入ってる時間だ。起きなくても良いなら、寝た方がいい。なんなら昼過ぎで、やりすぎると夕方過ぎまで。僕も昔よくあった。昼夜逆転してれば、下手すると夜に寝、夜に起きる。時々自己嫌悪になるほど、いや毎日自己嫌悪したくなる生活サイクルになる、“だらしないニート”区分のみなさまの話、かつての僕の話だけれど。

でも、だらしない人でも、よっぽどのことがなければ、それでも目覚める。目覚めてしまう。一週間寝続けるのは無理だ。それが“仕事”であっても難しい。そもそも丸一日、24時間ぶっ通し睡眠、というのも基本的にない。経験的に。そして仮にあったとして、それは“日常”にはならない。なっていれば“よっぽど”な部類になる。

そこで僕は眠い頭で考える。なぜ「ぶっ通しで寝る」が“よっぽど”になるほど、僕らは眠られないのか。「ぶっ通し」が24時間、いや365日だとしても、宇宙の時間の流れを思えば、ほぼ一瞬。人は寝ていないに等しい。人に限らず、動物もそうだ。“1万年の眠り”なんてのは、聞いたことがない。

そこで調べてみる。眠い頭で。まず始めに「僕らはなぜ寝るか」。そして分かったことをメモしていく。「僕らはなぜ寝るか」。僕らが眠るのは、肉体的・精神的休息や回復、記憶の再構成といった目的があるが、いずれにせよ脳と関わっている。それは誰もが知っている。

脳ミソには多くのホルモンを分泌する「脳下垂体前葉」という部位がある。この部位から放出される成長ホルモンが、睡眠時は特に多く分泌。そのため肉体的ダメージの回復が促進され、「寝たら治る」になるようだ。ちなみに睡眠には「メラトニン」というホルモン、化合物も関連している。

それはそうだとして、実は「僕らはなぜ寝るのか」は、科学的にまだよく分かっていない部分が多いという。そもそも胎児だって、誰からも教えられていないのに、寝ている、本能的に。そこで「僕らはなぜ寝るのか」を別の問いに変換すると、「僕らはなぜ睡眠なしに生きていけないのか」「僕らはなぜ常時覚醒可能に進化できなかったのか」になる。進化論を前提にするとだけれど。

恐らく僕らの睡眠システムの進化は、太陽系の仕組みにも大きく影響しているだろう。夜寝る、朝起きるとは、太陽の出入りと関わるし、それが日光・明るさ、あるいは気温と関係するならば、「闇の中では起きていてもしょうがない」、「田植えだって月明かりだけではやりづらい」、「寒いからこもりたい」と、環境に合わせたライフスタイルで、進化的に折り合いがついたのかも知れない。

けれど夜行性動物や深海魚だって眠りはするから、そこらへんとどう折り合いをつければよいのだろうか。とりあえず寝ながら考えるしかない。もしくは、宗教的理由でも見つける他ないも知れない。

そんなだから、起きること、「覚醒」についても、色々議論はありそうだ。医学的、生理学的に解決できることも多いだろうけれど。

「僕らはなぜ起きるのか」。「目覚ましが鳴るから」「日差しが眩しいから」「ベッドから落ちたから」といった外部からの刺激や、「トイレに行きたくなったから」などの内部からの刺激もあるだろう。でもそれは誰でも経験的に知っているし、活用している。

「起きなければ何も始まらないじゃないか」と当たり前のことを思う。「僕らは睡眠から覚醒するから、自らのストーリーを生み出せるのだ」と思う。起きてこそ、「行動を起こし、知識を吸収し、物事を把握し、思考することができる。あるいは作品を創り、家庭を築き、年金分の給与を生めるのだ」と。

「覚醒」はすなわち、生きる本質ということだ。「覚醒」時間をより効果的に使うために、「睡眠」システムがある。「覚醒」の連続が人生になる。人生の認識になる。「覚醒」はけっしてパチンコやパチスロ「エヴァンゲリオン」での「大当たり確定」の意味だけではない。あるいは米英でのプロテスタント信仰リバイバルを指すのでもない。

「起きる」。そして「寝る」。起きたいから起きているし、寝たいから寝ている。生得的に。でも、ふと朝の通勤電車に揺られ、無理して起きている人や座って寝ている人を見て、その2つの行動原理について考えてみた。いや、正確に言えば言葉が浮かんだだけだけど。おやすみなさい。

◇おしまい


2012年5月24日木曜日

なぜ松陰神社があるのか?論。


※この稿は、松陰神社の歴史解説はしておりません。なので答えにも辿り着きすらしていません。それはきっと今後の「なぜ?」シリーズ全てで言えるけど。

ふと松陰神社が気になって、神社について考えた。東京は世田谷・若林。松陰神社は僕が以前住んでいた場所の近くにあった。あの吉田松陰(1830ー1859、享年30)が祀られている。実は松陰神社は山口は萩市にもある。明治23年、1890年創建。こっちが本家っぽいが、世田谷の方が創建は8年古い。

急に話は「近代社格制度」というものに飛ぶ。明治4年に作られた“神社ランキング”制度だ。最上級はご存知、伊勢神宮で別格扱い。社格制度によれば、神社を大きく分けると「官社」と「諸社」。前者は国、諸社は県や村が管理する神社になる。官社>諸社。さらにそれぞれ大社、中社、小社がある。

整理すると、「官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社」。諸社は、「府社=県社=藩社>郷社>村社」のランキング。どうでもいい人にはどうでもいい序列でもある。でも寺院にも聖堂にも、そんなようなものがある。その確認だけしたくて、「近代社格制度」に触れてみた。

で、松陰神社。世田谷のは府社、萩のは県社。いずれにしても、“旧社格”だけれど。
でで、明治時代。30歳の若さで死んだ教育者・思想家が、神様になった。しかも官が管理する神社としてあった時代もある。これは考えてみれば不思議なことだ。キリスト教の「聖人」格と同じ位、理解しがたい宗教観なのだ、僕には。人間が神様になる、という発想は、菅原道真だったり、平将門だったり、何も松陰に限った話ではいのだけれど。

例えばギリシア神話。ゼウスとかアポロンとかの十二神。突っ込みどころ満載ではあるけど、この“神様”には、いくら偉人だとして、ジョン・レノンとか、黒澤明とかは並ばない。ギリシャ神にはならない。でも神道では、文字通り、神格化される。人が天照大神と同じ「神社」群の中で祀られる。もちろん「神仏習合」など仏教との絡みとか、政治的な絡みや分離を乗り越えた理論とか、もろもろ凄まじい部分もあるのだけれど、とりあえずここではそれは置く。

僕はそういう「あまりカッチリしていない」と言える神道に、「思考停止しているの? 大丈夫?」という疑問を持つ以上に、「なんて大らかな宗教なんだ」との感動すら覚える、本当に。あまりにも「大らか」過ぎで、小さな僕の思考容量をはるかに超えている。

僕はそんな宗教観あふれる日本で暮らす。神社の歴史、神社のオーラ。神道の深み、神道の美しさ。その奥義に少しでも近づくため、僕はこのブログ内でちょっとずつ、ちょっとずつ、「神道」についても整理していきたい。していけないかもだけれども。少なくとも、なぜ、松陰神社はあるのか、の答えは、ここにはありませんでした。

◇おしまい



2012年5月23日水曜日

なぜ風邪をひくのか?論。

サルトルの話はさておき、僕が風邪をひいてはや5日目。けっこう辛い。多分職場も、僕の鼻をかむ音に「お!いい音してんね~」と、イラつき始めているかも知れない。いや、「眠気覚ましにちょうどいいわガハハハハー」となってるかも知れない。いやそれはない。

とにかく、風邪はつらい。まず楽しくない。そのお陰で儲かりもしないし、美女との遭遇率が上がるわけでもない。で、医学的な要因以外に「なぜ、風邪をひいているのか」を、考えた。アタマの体調は絶不調だから、逆に新しい答えが見つかりそうだ。とは思ってないけど。

まず神学的、キリスト教的、予定説的に答えを探してみた。「これは神からの恵み」と、キリスト教信者は捉える。または「神の御心」とか「神の計画」とか。あるいは「神が理由あって与えた試練」とか。

その調子でいけば、僕の鼻水は聖水になり、朦朧とする思考回路は聖霊との接近につながるかも知れない。神はそれを望んでいる。そしてこうしてブログすることも“計画のうち”。誰かが、「なるほど!やっぱりキリスト教か!」と改心し、キリスト教信者になる助けになるだろう。

そうでなくて、僕が神について反省し、悔い改めるきっかけにもなるだろう。僕が産出する粘液や不快指数が、世界を救うアイテムとなる。なるか!

ちょい発想転換。仏教的に考えてみる。いや実存主義的に考えてみる。いや唯物論的に考えてみる。いやスコラ哲学的に、いやポストモダニズム的に……。視界ぐるぐる。

だんだん脳ミソが溶けてくるような感覚になってきた。これも風邪という現象がもたらす作用なのだろう。仕方がない。答えもなく綴り始めた文章だって、中途半端に終わらせることだってできる。風邪という生理システムでは、ある程度のことまで許されてしまうのだから。誰に?自分にだ。
 
自分が自分を許す、許さざるを得ない、自分しか許す者がいない。ゆえに孤独な存在を自覚する。そんな孤独の中で、神と対話する。「あなたはなぜ風邪をつくり給うたか」。神は答える。「神が栄光を受けるためである」。なんてことが、「ヨハネの福音書」にある。

聖書は一応、いろいろ答えを用意してくれている。ここまで普及するだけの「神的論理」は整えられている。モルモン教とか、幸福の科学とかでは、どんな答えが用意されているか知らないけれど。

僕の体は、あるウィルスに感染。僕の名付けてすらいない細胞たちが、健気にウィルスと戦っている。つまり悪玉排除機能がONにされ、生命維持システムが稼働している。僕の意志や機能設計能力、同能力付与方法などと無関係にだ。

若々しい緑が眩しい皐月。日本、東京。金環食が先日見れた。宇宙の神秘。その一部であるはずの僕は…風邪をひいている。しつこいくらいにその事実を確かめる。そして「なぜ、風邪をひくのか」の答えを、路上の水たまりほどの浅い知識で追い求める。

頭ぐるぐる。鼻水ずるずる。やがて「やっぱどーでも良くね?」となる。「どーにでも採れなくね?」となる。解釈学になる。解釈学って何だ?、てなる。てなる。って何だ?となる。謎は謎のままにする。いや、そんなに謎でもなかった謎だ。

なぜ僕は、風邪をひくのか?  もちろん僕を含む僕以外の人には、どーでもいい話だ。うん。ぐほっ。じゅるる。


◇おしまい

2012年5月22日火曜日

超「実存主義」講座(サルトル記・前)


サルトルの命日に近い日付を誕生日とする筆者の僕は、「実存主義」についてツラツラ綴る前に、まず魅力的な人生を送ったサルトルの日々を俯瞰してみる。そもそも僕が「実存主義」に関心があることに、また勝手に哲学ブログを展開することに、世界約70億人のほとんどが、関心ないことは知っているのだけれど。。。

まずはサルトル記 哲学科教師になるまで。夏目漱石が新聞で「吾輩は猫である」を連載開始させた頃、日露戦争が本格化していた頃。1905年、フランスのパリで生まれたのがサルトル(-1980年)だ。“お父様”は海軍将校。“お母様”は、アフリカで医療と伝道に生きたシュバイツァーの親族。生後まもなく母子家庭となり、サルトルは知識人階級のシュバイツァー家で育てられた。

1915年、サルトルは「ルイ大王学院」とも呼ばれるエリート養成学校「ルセ・ルイ=ル=グラン」に入学。パリの伝統的学生街、カルチェ・ラタンの中心で教養を育んだ。ちなみにこのイエズス会の学校からは、「レ・ミゼラブル」の文豪ヴィクトル・ユゴーや、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」の哲学者ヴォルテールが卒業している。

だがパリでの学びは2年で中断。“お母様”の再婚にともない、海に近い地方へ引っ越し、転校したからだ。それを機に、サルトルはグレた。“秀才”だった子が“悪童”になったことを案じた“お母様”は、「しょうがないわね。あなたはパリに戻って良いわよ」と、サルトルをパリへ帰した。でサルトルは1920年に、「ルセ・ルイ=ル=グラン」に編入した。“悪童”は“秀才”へと復帰した。

1924年、サルトル19歳、「ENS」と呼ばれるグランゼコール「高等師範学校」の学生となる。サルトルは学校の教員を目指した。刺激的な学生生活。パリのカフェで級友たちと酒を飲み、哲学的議論をし、親友とドイツ文献をフランス語訳にしたりした。

学校の先生になるためには「アグレガシオン」という教員資格が必要だが、1928年の試験で、サルトルは落第した。もしかしたら初めての大きな挫折だったかも知れない。けれどその落第のお陰かも知れないが、彼はこの“浪人”時期に才色兼備のボーヴォワールと知り合った。1929年の試験では、サルトルは首席合格、ボーヴォワールは次席合格。「やったね!」と言い合ったついでではないけれど、同年二人は、「2年間の契約結婚」を開始した。


◇つづく